「日本版『アナと雪の女王』」

日本で『アナと雪の女王』は、日本語版の「ありのままで」の歌のヒットがまずあり、エルサ役の松たか子さんと、アナ役の神田沙也加さんの歌声を堪能できる吹き替え版で多くの人に鑑賞された。この歌が「ありのままで」「このままでいいんだ」というメッセージを与え、多くの女性たちが励まされた。しかし実際には、この歌を「ありのままで」と訳すことによって、映画のストーリー自体もまったく作りあげられしまうという、ある種「日本版『アナと雪の女王』」になっていることはあまり知られていない。日本語版は、英語版とは全くの別物になっているのだ。
1.本来の英語版では、「ありのままで」ではいけないというストーリーである。
英語の「let it go」は、「ありのままで」とは訳されない。どちらかというと、もう「行くに任せよう」、つまり「成り行き任せ」「もうどうでもいい」とでも訳されるべき言葉である。生まれたときから周囲を凍らせ、雪を降らせることのできる特殊な能力をもつ女王エルサが、それを皆に知られてしまい、絶望のあまりにやけになって、山に閉じこもるというシーンである。それが日本語版では、「ありのままでいい」と振り切れたというような印象を与える。
実は翻訳にも、そのストーリを支えるためのかなりの改変がある。例えば妹のアナが、エルサに下山を促しに来るシーン。「あなたは王国に帰りなさい。私の居場所はここなの。ここは一人だけど自由がある」と主張するエルサに、アナはエルサが下界を凍らせたことによって、大変なことになっていると告げる。それに対して、日本語版では、多くのセリフが「ああ」という絶叫で省かれている。
「あぁ、酷いわ、悲しい」
「何もかも無駄だったの、無意味だったの」
「私にできることは、何もない」
「危険なだけ」
「ああ、あああああああああああ。やめて!」
ところが英語版ではちょっと趣が違う。
「なんて愚かなの。自由になんてなれない」
「心のなかの嵐からは逃れられないのよ」
「呪いを解くことなんてできないわ」
「アナ、お願い。事態は悪くなる一方よ」
「恐ろしすぎる。ここにいては危ないわ」
(一緒に立ち向かえると説得するアナに対して)
「できない!」
私がざっと訳したものであるが、つまりは、一人で孤独に生きていてはいけない。自分の心のなかの嵐からは逃れられないのだ。と気がつく、つまり、山に一人でこもっても仕方がないのだということに、やっと思い当たるシーンである。そしてそのうえで、その気づいた現実にまだ立ち向かう勇気がでないと、叫ぶシーンなのである。
ありのままの自分で山にこもってもいい、自分らしく生きればいいのだというメッセージを与える日本語版に較べれば、心を閉ざしてひとりで生きてはいけないのだというメッセージを与える英語版は、メッセージとしては正反対だといえる。
付け加えるならば、アナが歌う歌に「扉を開けて」があるが、原題が「愛は開いた扉」であるように、英語版では「扉を閉める」ことは「心を閉ざす」ことのメタファーとして、全編において機能している。例えば、アナが説得にいく同じシーンは、英語版では、
「私を締め出さないで。ドアを閉めないで。
もう私から距離を取る必要はないの」
であるが、日本語版ではたんに
「ねえエルサ行かないで
ねえお願いよ
私から離れないで」
である。いたるところにある、「他人に扉(=心)を開こう」というメッセージは、「ありのまま」を軸にしたストーリー展開のために、少しばかり犠牲にされているように見える。しかし日本でヒットした理由は、「ありのまま」でいいというメッセージにある。
2.隠されたエルサの親に対する怒り
実は英語版では、かなり親に対する怒りが見られる。「ありのままで」のなかには、「生まれつきの能力を隠し、いい子でいなさい」という親の言い方を憤りをもった口調で真似し、「でももう知られてしまったので、もういいのだ」というところがハイライトのひとつでもある。
立ち入らせないで
心を見せないで
いい子でいなさい、いつもそうでないとだめだよ
隠しなさい、感情を抑えて(感じてはダメ)
知られてはダメ
でももう知られてしまった
ところが日本語版では、こういった要素はまったく無視されている。ここは歌詞であるため、(本来は学術的に部分的に引用することが許されているにしても)引用することがためらわれるが、「戸惑い」「傷つき」「誰にも打ち明けられないで悩んでいた」といった類の言葉で構成されている箇所にあたる。親に対する憤りはそこには、まったく見られない。
アナが「雪だるま作ろう」と誘いに来るシーンでも、親の言い聞かせが、挿入されている。
手袋をしたほうがいい。ほら。
隠しなさい。
感じないように。
見せてはいけない。
感情的になると周囲を凍らせてしまうエルサに対して、親は「感じるな」「感情を隠せ」という。つまり、心を閉ざすことは、親からかけられた「呪い」でもある。ところが日本語版では、たんに
手袋をしなさい。ほらこのほうがいい。
落ち着くように。
見せないように。
で終わりになっている。親の「呪い」は見えない。劇場に実際に子どもを連れて行くのは、親であることを考えれば、親に対する批判や恨みが封印されることは、どちらかというと好都合だったのではないか。
3.際立つ姉妹の役割
「アナと雪の女王」は、姉妹の話である。日本語版ではとりわけ、エルサがいかにも責任感のあふれる長女、アナが無邪気な妹、というように「きょうだい役割」が際立たせられているように思う。それは「シスター」という本来、女のきょうだいを意味する言葉を、「姉」や「妹」という出生順によって決められる役割で訳さなければならない日本語の性質からも来ているようにも思う。
例えば、アナがエルサを探しに行くシーンは、英語版では
「君は彼女(=エルサ)を信用できるのか?
君に傷ついて欲しくないんだ」
「彼女は私のシスターよ。彼女が傷つけるはずはないわ」
日本語版では、
「女王を信じられるのか。もしも君に何かあったら」
「大丈夫に決まっている。だって姉さんなんだから」
揚げ足を取るようにも見えるかもしれないが、「女王」の「お姉さん」が私を傷つけるはずがない、「だって姉さんなんだから」という台詞は、エルサをいっそう彼女が嫌う「家族役割の枠」に押し込んでいくようにも見える。英語でのシスターは対等で親密なニュアンスがあり、第二波フェミニズムのキーワードのひとつは確かに「女の対等な連帯」である「シスターフッド」だった(もちろん、批判はあった)。この物語は、日本ではより「姉」と「妹」の物語として受け止められたように思う。それは、「不器用な姉」と「奔放な妹」の対比をより際立たせ、姉妹の役割のなかで悩んでいる女性たちの共感を呼んだのではないかと考えられる。