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ここにあげた通釈も補記も伝統的なものなのだろう
しかし本当にそうかな
「当時は水面ばかりでなく水底にまで物が映って見えると考えられたらしい。」とはまた、なんという珍説。
この補記には無理がある。
水底には物は映らないでしょう。まあ、当時の人はそう思っていたというのなら、
そうではないという証拠もないし、いいようなものだが。
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とてもまともに考えると、
風に吹かれるもみじ葉、水面に浮かぶもみじ葉、水底にみえるもみじ葉、
この三層が入り乱れ見間違う
凡河内躬恒の有名な、心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花
では、初霜と白菊の白が見間違うばかりだというのである
同じ趣旨で、この歌では、上記三層が見間違うばかりであって
それほど水が澄んでいる、散ったのは直前である、という意味だろう
ここで水面に浮かぶもみじ葉をあげるのは、(私が以前読んだ)伝統的な解釈ではそうなっているからであって、
歌から直接解釈できるのは、「水底にみえるもみじ葉が、樹に付いていた頃のもみじ葉と区別がつかないくらいだ」
というものだ
たぶん、風が吹いたのは直前であって、もみじ葉はみずみずしいのだろう
水が澄んでいるのも、直前の雨だからだろう
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もう少し膨らませて考える
風が吹くともみじ葉が落ちる
(川か、湖か、沼か、水たまりか、)水が清らかなので、
まだ散っていないもみじ葉さえも水底に見えている
ということになる
すると、水深は浅いはず、湖でもないし、沼でもない、水底が見える程度の川か水たまりということになる
実際の観察をもとにすれば、今目の前に見えているものは、
風に吹かれて落ちるもみじ葉
水面に浮かぶもみじ葉
水底に沈んで見えるもみじ葉
水上の空間にあるもみじ葉が(これは樹に付いているものも、樹から離れたものも含むが)、水面に映る、鏡像としてのもみじ葉
(水底に映るもみじ葉の説はここでは採用しない)
この四種である
樹にまだ葉が残っているかどうかは不明
しかし散り尽くしたと解釈しても良さそうだ
散っていないもみじ葉の姿が水底に見えているというのは
理屈に合わない
散っていないもみじ葉の姿があるとして、そは水面に鏡像として見えているはずである
それを底に見えつつというからには理由があると考える
水底にもみじ葉が見えているのだから
流れの早い川ではないはずだ
水は非常に澄んでいるが、流れは川底のもみじ葉を流してしまうほど早くはない
たくさんの雨が降ったあとの水たまりに近いかもしれない
散っていない姿さえも水底に見えるという
ということは、眼前の樹のもみじ葉は散り尽くしたのではないか
そして散る前のもみじ葉は、いまは水底だけに見えているという意味に解釈したらどうか
つまり現在は失われたものが
水底に在る
強い雨と風でもみじ葉は散り尽くした
しかし樹の下に澄んだ水たまりができていて
その水底にみえるもみじ葉は散る前の姿を伝えている
というような意味なるだろう
いまはもう散り尽くしたもみじ葉であるが
水底の葉を見ると、在りし日が思い浮かぶようである
すると水底は過去への通路のようにも思われてくる
だとすれば、これは湖の浅瀬での叙景と見ていいのではないか
湖の浅瀬の水底にはもみじ葉が見えている
それは盛んだった頃のもみじ葉の樹の姿を伝えている
そして視線の先には深い湖底がある
そこにはもっと古い昔の、世界の姿が保存されている
水が清らかで水底が見えるのは浅いあたりだけだ
深い方を見るとうすでに水きよみではなくなる
深い底には深い昔が保存されている
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いや、ここで保存されているというのも正しくない
過去がそこに保存されているかのように、人間に思い出させる何かが在るという意味だ
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冬の始まりの風が吹いて、もみじ葉は散り尽くした
次の日の朝、湖のほとりを歩いていると、澄んだ水を通して、浅い水底に散り積もったもみじ葉が見えている
もみじ葉の盛んだった秋の日を思い出させる
それはつい昨日のことだ
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もみじ葉は風で散ったが
水は清らかに澄んでいるので
まだ散っていない在りし日を思い出させる色鮮やかなもみじ葉が水底に見えている
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いまはもう消えてしまった盛んな紅葉がそっくりそのまま水底にあるみたいさ
それくらい、水底の落ち葉はきれいだよ
くらいのニュートラルな、軽い感じが凡河内躬恒には合っているのだろうと思う
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喪失体験の直後には、このようにありありと、部分が全体に思えることがあると思う
現在が過去に思えることがあると思う
いや、過去が現在に思えるのか