「法の支配」とは無縁の、上命下服、上意下達の見えざる過酷なシステムがある
きわめて巧妙かつ複雑なシステムですよ。すべてが、「見えざる手」によって絶妙にコントロールされている。ある意味、芸術的ともいえる思想統制です。まさに超絶技巧です(笑)。
建前上は、すべての裁判官は、独立しているわけです。裁判官は、法と良心に照らして、みずからのよしと信じる判決を書くことができる。
建前上はそうです。欧米先進国と同じ。
ところが、特に、権力や統治、支配の根幹に関わる憲法訴訟、行政訴訟、刑事訴訟、そして原発訴訟(これは民事と行政の双方がある)のような裁判では、結局、ごく一部の良心的な裁判官がある意味覚悟の上で勇気ある判断を行うような場合を除けば、大多数は、「どこを切っても金太郎」の金太郎飴のような権力寄りの判決になる。
独立しているはずの裁判官が、あたかも中枢神経系をもつ多細胞生物を構成する一個の細胞のように、一糸乱れぬ対応をとる。最高裁長官を頂点とする最高裁事務総局がその司令塔であることは今や公然の秘密ですが、外部からは、どこに中枢があって、どのような形で統制が行われているのかが、そのシステムの構造が、とてもみえにくい。
しかも、多くの裁判官は、精神的「収容所」の囚人化してしまって、自分がそういう構造の中にいることすら見えなくなっている。
実際には、退官した裁判官や、ヴェテラン裁判官の中には、「大筋瀬木さんの分析したとおりだ」と言っている人も多いと聞きますし、裁判所当局によって無効化され悪用されたところの大きい「司法制度改革」に協力してしまった弁護士(これには、左派の、弁護士・元裁判官弁護士の一部も含まれています)を除けば、弁護士も、少なくともそのハイレベル層は、そうではないかと思います。
僕の分析についての反応は、学界もほぼ同様で、ことに民事訴訟法学界の長老たちの多くは「やはりそうだったのか」という感想です。法社会学者の多くも同様。また、東大で授業を受けたことのある民法学界の長老がわざわざ僕の講演会におみえになり、後から、専門誌に載せられた賛辞の文章をお送り下さったこともあります。