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関連商品の出荷停止を決断した人々は、「ほとぼりがさめる」のを待っている。
というよりも、「ほとぼりをさます」目的で、あえて過剰な制裁に殉じるポーズを取っているのかもしれない。
これまでの例から考えて、クスリでパクられたアーティストの作品を売り場から引き上げる措置は、期間限定の、一時的な「見せしめ」に過ぎない。
いずれ、折りを見て、出荷は再開され、「ミソギ」の後に「作品」はよみがえることになっている。とすれば、あらかじめ期間を限った上で身を屈めて見せることに何の意味があるというのだ?
反省芝居と言われても抗弁できないのではないか?
しかしまあ、関係者が保身に走りたくなる気持ちもわからないではない。
というのも、こういうことが起こると、ニッポンの社会は、70年ほどタイムスリップすることになっていて、それゆえ、早めに土下座をしておかないと、どこに火の手が及ぶか見当がつかないからだ。
不祥事に遭遇するや、われわれの意識は、連帯責任と集団主義が市民意識を圧殺していたあの「隣組」の時代に逆戻りしてしまう。
うっかりすると、一億総私設憲兵みたいなことになる。
とすれば、全員があらかじめ坊主頭になって謹慎している高校球児よろしく、集団謹慎モードの土下座芝居を励行するのが無難な対応てなことになるわけだ。
わたくしども日本の庶民は、古来、「ひとさまに迷惑をかけない」というモラルを広く共有してきた人間たちだ。
それゆえ、暴力事件でも、窃盗や詐欺や器物損壊でも、具体的な被害者が生じる犯罪については、われわれは、それを抑止する理屈に困らない。
「迷惑だからやめなさい」
と言えば、言った方も言われた方も納得しやすい。
ところが、薬物事犯では、被害者と加害者がともに自分自身ということになる。
と、
「オレのカラダをどうしようがオレの勝手だろうが」
という反論の余地が生まれる。
「クスリのせいでオレがボロボロになるんだとして、そのことでいったい誰に迷惑をかけるっていうんだ?」
というこの抗弁は、特に、捨て鉢になっている若い皆さんには大いにアピールする。
実際、クスリに手を出している人間のアタマの中では、「自己責任」という言葉が、「ほっといてくれよ、うるせえな」とほとんど同じニュアンスで鳴り響いている。
であるならば、こういうものを退治するには、「連帯責任」を持ってくるしかない、と、おっさんはそういう順序でものを考える。
で、思うのだが、薬物事犯における「連帯責任」が、とりわけ重く設定されている背景には、他人に直接の迷惑がかからない犯罪に関しては「あえて他人に迷惑を及ぼす」(←連帯責任)ことによって抑止するという空恐ろしい思想が介在しているのではなかろうか。
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同様に若者は酒に溺れて死んでしまいたいと願い、或いは自傷行為を試みることがある。社会が若者にそれを許さないのは、彼をそこまで育てるのに投入したコストを回収できていないからである