ポケモンGOに関連して
ポケモンGOは典型的な
Augmented Reality (拡張現実)ですという説明があり
たとえば、グーグルグラスで周囲を見回した時、
映像に説明が自動で出るようなものと同じだとのことだった
その人は「あれのどこが面白いのか」「ゲームの要素はほとんどないではないか」
と徹底的に無関心のようだった
「希少価値を奪い合うのが現実であり、かつ、ゲームである」というのが
その人の考えで、
現状ではポケモンGOは希少価値を手に入れるための才能や努力という点で言えば、
暇があって、あちこちの場所にしばしば行けることだけのようで、
ゲームとして低級すぎるとのことであった
銀杏を拾うようなものだな と言っていた
しかし銀杏の場合には数に限りがあるので場所取りは早い者勝ちだ
ポケモンGOでもそのような要素があるのだろうか
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拡張現実のほかに仮想現実というのもある
そちらのほうが従来のゲームに近い
しかし考えてみると、我々人間が肉眼で見ているものがナマの現実かといえば
そんなことは全く無い
よく引用されるのは虹の七色である
あらかじめ七色であると学習しているから七色に見えるだけである
だから虹の七色というものは
人間の概念と現実の虹の合作である
そのような意味では、われわれは共有する幻想を生きていると言ってもいい
ブランド物のバッグや高級自動車などがいい例だと思うが
実用的にはどうということもない
他人がいない世界ではそんなものは使わないだろうと思う
我々はブランド物についての共有の幻想があって、価値づけしているから
ピカピカに見えるのだろうと思う
そうしてみると、ブランド物のバッグを見た時に、解説の吹き出しが出て、「これは高級」とか
「これはレア」とか、出ているようなものである
あるいは、バッグを見て、モンスターがびっくりして目を輝かせているようなものである
田吾作にはブランド物が通用しないことでも分かる
田吾作の視野には解説も出ないし、モンスターも出ないのである
こうした共有の幻想は異文化に出会った時に痛感させられる
たとえばカトリック教会では独自のイメージのシステムがあり
十字架はどうとかいうし
踏み絵というものがあって
ただの絵なのに命を落としたりする
国旗とかもそのたぐいである
これは価値を押し付ける道具であり、国内統治のための道具である
4とか9は縁起が悪いという日本人
13は縁起が悪いというクリスチャン
このあたりはナマの現実に、概念を重ねあわせて、認識が成立していることが分かる
では、ナマの現実とは何かということが問題で
カントが問題にして、自然科学はできるだけその問題に答えようとしてきた
しかし最終的に認識するのが脳であるかぎりは
ナマの現実は何かということは難しい
むしろ、大砲の弾道を計算する数式が、ナマの現実なのだろう
そして、量子力学の世界での数式がナマの現実なのだろう
その数式を実感できない脳のほうが進化が足りないのだという議論も成立する
その点では、人工知能がディープラーニングのように形で認識するほうが
ナマの現実に近いのかもしれない
つまり、人間の脳が介在せず、目的を達成するから
その全体を脳が解釈して認識しようとすれば、再びナマでない現実を見てしまうことになるのだろう
共有の幻想は、どうせ幻想なのだから、内実は、それぞれに異なるものだと考えられる
その細部を共有する必要はないのであるが
カトリックなどでは
執拗に共有しようとして議論を精密化して
同時にそれを押し付けている
それが人間の文化というものなのだろう
針の上で天使は何人まで踊れるかについて
共通の認識を持つまで話を止めない
それは極端な例で、共有の幻想は、細部は曖昧でいいのである
そこに独自の世界も生まれる
しかしあまりに独自すぎて共有できないという場合は排除される
少しだけ、半歩だけ、独自という程度が、面白がられたり、才能があると言われたりする
しかしその程度についてはその時々の偶然といえるものだ