ミトロヒン文書(ミトロヒンぶんしょ、英語:Mitrokhin Archive)は、1992年に旧ソビエト連邦からイギリスに亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)の幹部要員であったワシリー・ミトロヒンが密かにソ連から持ち出した機密文書のことである。25,000ページにわたる膨大な文書はMI6の協力を得てイギリスに持ち出され、ケンブリッジ大学のインテリジェンス歴史研究家であるクリストファー・アンドリューも分析に参加し、「Mitrokhin Archives I」[1]「Mitrokhin Archives II」[2]という書籍にまとめられ出版されている。その中では旧ソ連KGBが西側諸国に対して行っていた諜報活動が細かに記載されている。
西側諸国に与えた衝撃[編集]
この大量の文書は旧ソ連KGBがどのようにして諜報工作を行ったか詳細に記されており、アメリカのFBIはこの文書を
これまで得た情報では、最も完璧で広範囲に亘り網羅している。
と評価し、またCIAは
戦後最大の防諜情報の宝庫。
と評している[3]。
特に第二次世界大戦後共産党の勢力が強かったフランス、イタリアに与えた衝撃は大きく、イタリアでは「ミトロヒン委員会」が設置されて詳細調査が行われた[4]。
日本に対する諜報活動[編集]
日本に対する諜報活動は2005年に出版されたMitrokhin Archives II[2]に「JAPAN」としてまとめられている。[3]
同文書には大手新聞社を使っての日本国内の世論誘導は「極めて容易であった」とされている。
政界等に対する工作[編集]
その中でKGBは日本社会党、共産党また外務省へ直接的支援を行ってきたことが記されている。他にこの文書内で
「日本社会党以外でKGBに関与した政治家の中で、最も有力なのは石田博英(暗号名「HOOVER」)であった。」
とされている。
大手メディアに対する工作[編集]
新聞社等スパイによる世論工作[編集]
ミトロヒン文書によると、『日本人は世界で最も熱心に新聞を読む国民性』とされており、『中央部はセンター日本社会党の機関誌で発表するよりも、主要新聞で発表する方がインパクトが大きいと考えていた』とされている。そのため、日本の大手主要新聞への諜報活動が世論工作に利用された。
冷戦のさなかの1970年代、KGBは日本の大手新聞社内部にも工作員を潜入させていたことが記されている。文書内で少なくとも5人は名前が挙がっている。
朝日新聞の社員、暗号名「BLYUM」
読売新聞の社員、暗号名「SEMYON」
産経新聞の社員、暗号名「KARL(またはKARLOV)」
東京新聞の社員、暗号名「FUDZIE」
日本の主要紙(社名不詳)の政治部の上席記者、暗号名「ODEKI」
中でも朝日新聞社の「BLYUM」については
「日本の最大手の新聞、朝日新聞にはKGBが大きな影響力を持っている」
としるされており、「BLYUM」が同社内で重要なポストにいた人間か、または複数名の同志がいたことをうかがわせる。[3]
「1972年の秋までには、東京の「LINE PR」(内部諜報組織)の駐在員は31人のエージェントを抱え、24件の秘密保持契約を締結していた。特に日本人には世界で最も熱心に新聞を読む国民性があり、KGBが偽の統計情報等を新聞に流すことにより、中央部はソビエトの政治的リーダーシップに対する印象を植え付けようとした。」[2]
とあり、日本の主要メディアに数十人クラスの工作員を抱えていたことが記されている。
工作員となった新聞社員のミッションは『日本国民のソ連に対する国民意識を肯定化しよう』とするものであった。例えば、日本の漁船が拿捕され、人質が解放されるとき、それが明白に不当な拿捕であったのにもかかわらず朝日新聞は
「ソ連は本日、ソビエト領海違反の疑いで拘束された日本人漁師49人全員を解放する、と発表した」[2]
と肯定的な報道をさせた、とされている。朝日新聞だけでなく保守系と目される産経新聞にもその工作は及んでいた。
「最も重要であったのは、保守系の日刊紙、産経新聞の編集局次長で顧問であった山根卓二(暗号名「KANT」)である。レフチェンコ氏によると、山根氏は巧みに反ソビエトや反中国のナショナリズムに対して親ソビエト思想を隠しながら、東京の駐在員に対して強い影響を与えるエージェントであった。」[2]
また、日米関係の離間を狙う世論工作も行われた。特に1960年代にはベトナム戦争反対の世論形成を行った[4]。
世論工作以外の諜報活動[編集]
KGB側が日本の大手メディアに接触したのには、日本国内の世論工作だけでなく、メディア関係者だけが持つコネを使って一般に公開されない政府情報を入手できるということも大きかった。こういったメディア業界が持つ特権をKGBは巧みに利用した。[3]
また、マスメディア内の工作員は「国民の知る権利」を利用して、政府行政機関を追求しオフレコ等で極秘情報を入手し、それをスパイに極秘に渡すことで報酬を得るという手段を用いた。レフチェンコの証言によると、山根卓二は昭和53年の福田赳夫首相とジミー・カーター大統領の日米首脳会談の極秘情報をレフチェンコに密かに売り渡したとされている。[5]
一般人の工作員化[編集]
上記のような大手メディアの工作員は一般人である。それを工作員化する方法については
「メディアに属するKGBのエージェントの殆どは、主に動機が金目当てだったであろう。」[2]
と記されている。またその他に、ソ連訪問中にKGBに罠にかけられて工作員になる者もいた。読売新聞社の「SEMYON」はモスクワ訪問中に『不名誉な資料に基づいて採用された。それは闇市場での通貨両替と、不道徳な行動(ハニートラップ)であった』と書かれている。