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思い出すのですが、昔、とてもお金持ちな人の家に遊びに行ったことがありました。
いろいろ驚くことはあったのですが、
居間のリビングボードの中に世界の名作映画の販売VHSテープが沢山収納してありました。
レンタルでもなくこうして買ってしまうのかと思い驚いたものでした。
その後映像メディアも変遷があり、
いまではもっと高画質なものを安価に鑑賞することができます。
あの頃はお金持ちだけに許された幸せだったものが
いまは一般庶民にも享受可能になっている
ただ遅く生まれて長生きしているだけで
昔の金持ち以上の幸せを手に入れることができる
これはすごいことだ
しかしそれをあまりありがたいことだとも思わない
現代に生きる人にとってはみんな同じだからだろう
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学問の世界でも同じようなことがあります
人にはできない思いつきができる人はどの時代でも偉いものですが
むかしは、こつこつ情報を集め、整理し、加工する、そのことで成果とする、というタイプの
人たちもいたと思います。
ところが現代では情報収集も整理も加工も、昔とは比較にならないくらい
速く大規模にできるわけです。
昔の学者さんの苦労は何だったのだろうと思います。
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今では廃れた学問というものもあります。
その学問に一生を捧げた人の人生を思うと複雑な気持ちになります。
その人は主観的には幸せな一生だったでしょう。
しかしいまとなってはその人の業績を引用する人はいないのです。
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音楽の演奏などもそうかもしれません
古い演奏はやはりそれなりに古いと思います
昔の人はこれを繰り返し聞いて崇拝していたのかと思うと
今の我々も未来の人たちから見ればそのようなものに見えるだろうと思うわけです
感動は感動だからそれでいいのだと思いますが
それなら極端な話、ドパミンが出ていればそれでいいというような
乱暴にな話になってしまいそうです
現代のベートーベン事件でも
一部の人達は本当に感動したのでしょうから
感動したほうが幸せだったといえるのかもしれないですね
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音楽で言えば最近ハイレゾの宣伝を見かけたりします
業界関係者一同は宣伝に力を入れているようです
しかしCD音質で十分だし、人間の耳はそれほど鋭敏ではないという問題もあるし、
また、お金をかけて何か違いが出たとしても、そのことが音楽体験の本質に影響するものか
という疑問もあります
昔の下手なバイオリンに感動していた人たち、
現代のベートーベンに感動していた人たち、
ハイレゾを賞賛する作文を競う人たち、
まあ、みんな、それぞれなんだろうなと思うわけです
個人的にはハイレゾに適切な静寂な感情を作ることはできず
常にエアコンの音がして換気扇の音がして
そんな中で微細な音を鑑賞するのは無理と思っています
大音量で聞くことはもちろんできない
ヘッドホンで聞くことは辛くて出来ない
また加齢による聴覚系の変性もありますので
音そのものではなく
音を手がかりにして脳の中に再構成される音楽というものを
味わっている気分です
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しかしそれにしても、ハイレゾ推しの人たちの作文は
古風なテンプレートを使いまわしているようで
限界を呈しているような気がする
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