男根崇拝(Phallus Worship)

男根崇拝(Phallus Worship) 
 女神が支配する宗教が、女陰を最も神聖なるシンボルとしたように、男神が支配する宗教は男根を崇めた。父権制社会のセム族は彼ら自身の生殖器を崇拝し、各自の秘所に手を置いて固い誓いを立てた。アラブ人の間では今日もなおよく見られる習慣である[註1]。契約testament、証言するtestimonyのような語も、睾丸testicleにかけて立てた誓いであることを証明attestしている[註2]。
 アブラハムのしもべは手を「主人アブラハムのももの下に」入れて誓った(『創世記』第24章9)。「もも」は、神聖な器官を直接名指すことに対する迷信的な恐れから、一般に用いられた「ペニス」の婉曲表現であった。男性の擬似出産の神話では(ゼウスがディオニュソスの父親となったときのように)子どもを父親の「もも」から生んだ[註3]。しかしこの場合の「もも」は「ペニス」を意味しており、同様のことは男根を女陰のかわりにしたヒンズーの神話においても言える。すなわち神スクラ(「種子」の意)はペニスを通って偉大なる神の腹から生まれたのであった[註4]。
 「ペニス」を表す中東のもうひとつの婉曲表現は「ひざ」genu〔ラテン語。ギリシア語では"gony"〕であった。しばしば用いられ、一説には、ひざが精液の源泉と信じられるようになったほどである。父親は子どもをひざの上にのせて、子どもに対する父権を確立するのが常であった。genuine(ひざの)という語がlegitimate(本物の、合法の)を意味するようになった理由はここにある。メソポタミアでは、birkuという語は「ひざ」と「ペニス」をともに意味した[註5]。ラテン語では、この語がvirtu(男性的精神、生殖力、勃起)となった。
 聖書はヤコブのペニスを「もものつがいの上に」ある縮んだ筋と呼んだ。学者たちはこの萎えたペニスを、何か別のものに解釈しようとした。ユダヤ人が食べることを禁じられている(『創世記』第32章32)切断された腱、あるいはももの筋などである。しかし中世の翻訳者は率直に「筋」の男根としての意味を認めた。彼らは、神である男(god-man)がヤコブの縮んだ足にさわり萎えさせたのは、「色欲の火を鎮め」たのだと言っている[註6]。
 聖書に出てくる古代の族長は、ペニスが傷を受けやすいことを過度に心配して、悪霊がペニスに関心を向けないよう、直接言及することを避けた。旧約聖書の戒律は、ペニスに及ぼす女性の力に対して特別の恐怖をいだいていたことを明らかにしている。神の掟は、たとえ敵から夫を守るためであっても、男性の隠し所をつかまえた女性は、その手を切り落とされるべきであるとしている(『申命記』第24章11-12。
 「魅惑する」fascinateという語は、彼らの生殖器の持つ呪術を男性が信じていたことの名残である。ラテン語のfascinumは勃起したペニス(おそらく異性を魅惑するfascinatingからであろう)、とくに護符に描かれた男根の形を意味した。このような護符は中世を通じて、邪眼に対する防御手段として用いられ続けた[註7]。8世紀に教会は、fascinumに祈ることを禁じた。同様の禁止令は9世紀にも繰り返されなければならなかった。さらに12世紀と13世紀にも再び出されており、この風習が、禁止令にはかまわずに、行われていたことを示している[註8]。
 男根原理は、「メイポールmaypole(五月柱)」や「花嫁の杭」のような聖なる杭や柱として、ひそかに崇拝された。「花嫁の杭」は結婚式のとき立てられ、その周囲を「客人たちが、メイポールの周りをまわるように、踊りながらまわった」[註9]。スタブズは1583年に、一般の人々が踊りながら、メイポールに花輪をかける様子を描写している。彼はメイポールを「卑しむべき偶像」と呼んだ[註10]。古代ローマの女性たちは、「蒔いた種を実らせるために」、神リーベルの勃起したペニスに花輪をかけるのを常とした、と聖アウグスティヌスは述べている[註11]。
 男根に女性の輪をかける同様の性の儀式は、アントワープではかなり後まで行われた。ここではプリアポスの古い男根像が聖ワルプルガWalpurga〔ラテン語形Walpurgis〕の祭壇の前に立てられた。ワルプルガはかつては「ワルプルギスの夜」(4月30日夜)、つまり「五月祭の前夜」に狂宴を行う女神であった。毎年春の祭りのときに、女性たちはプリアポスのペニスに花輪をかけた[註12]。この神の像はナポリの聖なる行列のときに、あごまで届きそうな長いペニスを示しながら、街路を運ばれた。この異常生成物は「聖なる男根」il santo membroとして知られていた[註13]。
 13世紀の『ラネルコストの年代記』によると、復活祭のとき、インヴェルカイティングの教区司祭は、「プリアポスの冒涜的な儀式を復活させ、村から若い娘たちを集めて、父なるバッカスに捧げる踊りを輪になって踊るよう強いた。彼は、まったくの気まぐれからこれらの女性たちをひとまとめにし、みずから踊りの先頭に立って、造り物の人間の器官の像を柱の前に運びこんだ。そしてみずからも道化師のように歌い、かつ踊った」と記している[註14]。この司祭は、普通考えるほど常軌を逸しているわけではなかった。同様のことがヨーロッパ中に起こっていたのである。男根崇拝は、それがキリスト教の真の本質である、つまりキリスト教は男性原理の信仰であることを示唆するようなやり方で、キリスト教化されていった。
 巨大な男根は17世紀に至るまで、エウトロピウス、フータン、グエルリコン、アエギディウスAegidius、レイノー、ルネ、そしてギニョールのような聖人として崇められた。ヴァレイユの聖フータンは男根の柱であり、ブドウ酒を注がれて赤くなっていた。シヴァ神の男根がヒンズー教の寺院においてつねに赤くなっているのと同じである[註15]。ノルマンディーとアンジューの男根像の聖人は一夜ともに寝た女性を妊娠させると信じられていた。
 聖ギニョールの像には大きな直立したペニスがあって、女性は妊娠のまじないに、そこから薄い破片を削り取った。多くの薄い破片がそぎ取られ、聖人像は聖なる男根を全部削られてしまうことになりかねなかった。しかし大した先見の持ち主であった司祭たちは、木の棒で男根を作り、それを彫像に突き通した。像の後ろは仕切で隠されており、男根の先端が減ると、定期的に木槌で叩いて前に押し出したのである[註16]。
 キリストは最もよく知られた妊娠のまじないを与えて、男根の神の役割を果たした。「聖なる包皮
」がそのまじないである。正確にはこの包皮は単数ではなく複数で書かれるべきで、ルネサンス時代の教会には数百という聖なる包皮があった。少なくとも13例が今もなお残っている[註17]。この包皮はすべて女性を妊娠させる力を持っていた。シャルトルの教会が保存している最も有名な生殖力を持つ包皮は、奇跡によって数千人を妊娠させたと信じられていた[註18]。シエナの聖カタリナ(1347-80。イタリアの修道女、神秘主義者)は、イエスがその聖なる包皮を用いて、彼女の結婚指輪を作ったと主張するほどだった。彼女はイエスの花嫁として、「銀の指輪ではなく、彼の聖なる肉体の指輪で」イエスに結びつけられていた。「イエスが割礼を行ったとき、そのような輪が彼の聖なる肉体から切り取られたからであった」[註19]。
 男根像の聖人は、男性の生殖能力の保護者であり、性の悩みを持つ男性の嘆願を受け入れた。ウィリアム・ハミルトン卿は1781年、イセルニアにおける2人の男根像の聖人コスマスとダミアノス信仰について叙述している。「さまざまの長さの、男性の生殖器の部分を表した蝋の奉納物sxvotiが……公然と売られている。……供物を捧げ願をかけるときには、なにがしかの金が必要で、信者はつねに奉納物に接吻をしてから供える」。司祭たちは聖コスマスの聖なる油を、生殖力を増すまじないとして売った。
「聖コスマスの油は、腰や腰の周囲に塗ると精力を増進させる効力があるというので、たいそう評判が高い。1780年の祭りの期間中、少なくとも、1400びんの油が祭壇で塗油されたり、惜しみなく配布されたりした。祭壇で油を用いたり、そのびんを持ち帰った者は、たいてい聖コスマスのために寄付をするので、この塗油の儀式はまた大聖堂参事会員にとって大きな収入源となっている」[註20]。
 第二次大戦後に、英国におけるキリスト教の男根崇拝の広範な広がりを示す証拠が発見された。王立歴史的建造物調査委員会のジョフリー・ウェブ教授が、爆撃によって破壊された古い教会の祭壇を調査したところ、内部に大きな石の男根を発見したのである。その後の調査により、1348年以前に建てられた英国の教会の90パーセント近くの祭壇の内部に、石の男根が置かれていることが明らかとなった[註21]。異教徒の伝承によると、祭壇は女性の身体を象徴し(魔女が祭壇に裸の女性を使うと言われるのはこの理由による)、その内にある男根は、明らかに「隠された神」を表していた。
 次々に現れる性のシンボルは、ウェスタ神殿にある聖なるパラディオンは男性の生殖器に似たプリアモスの笏であるとするローマ人の信仰を、「思慮に欠ける」と呼んだジョルジュ・デュメジルのような宗教学者たちを当惑させた。しかし、そのデュメジル自身も次のように記している。「今は過小評価されてはいるが、このように大きな重要性を持つシンボルの観念を、将来宗教の歴史に甦らせることが必要となるであろう」[註22]
 男根崇拝について理解することは、宗教心理、ことに男性の自己崇拝の中に潜む根本的な不安定性を把握するために重要である。なぜならば男根神は女神なくしては無用のものだからである。レデラー博士は述べている。
「女性による支配が続いた時代には、女性は、自分たちが特有の魔法の力を持っていることに満足し、必要なときにはいつでも借りられる男性の小さな道具を羨んだりしなかった。実際、太母神は男根に不自由することなく……男根はいつでも手許にあった。それは女神の聖所の目立つところに置かれ、特別の神あるいは人間の男根ではなく、単に男根そのもの、都合のよいときにいつでも使える没個性化された道具であった。一度使うと、それは役立たなくなった。太母神にとっては、今日の彼女の末裔の、ある者たちにとっても同様だが、ペニスは消耗品であって、いつでも次のものが手に入り、おそらく新しいものは前のより、よりよいように思われる。新しいものは、もちろん若い。そしてみずからが消費され、若い男に(女神に対する性的奉仕と全般的奉仕の両方において)代えられる運命にあるという恐れが、中年の男性にとって、ときには深刻な不安感の原因となりうるのである」[註23]
 男根から生じる不安感は、すべての父権制社会の組織において顕著であった。そこでは女性の性への耽溺という恐れが、女性を禁欲的に忌避するか、あるいは迫害するという両方の結果をもたらした。
 異端審問の公式手引き書『魔女を打つ槌』Malleus Maleficarumに見られる唯一の冗談は、男根の不安感が基調となっている。この冗談はずるがしこい田舎者が、聖職者をからかうつもりで言ったのだが、修道士的な手引き書の著者たちはそれを真に受けたのだ。物語はこうである。魔女がある男のペニスを盗んだが、男は魔女を捕らえて、その在りかを白状させた。魔女は高い樹に登って巣を覗くように言った。巣にはペニスがいっぱい詰まっているのが見えた。男がいちばん大きいのを選ぶと、魔女はそれを取ってはいけないと言った。それは教区の司祭のものだったからである。
 信心深い著者たちは、大まじめで物語を鵜呑みにして、記している。「ときおりこのように大量の男性器官、つまり全部で20か30もの男根を集め、鳥の巣の中に置いたり、箱の中にしまっておくこれらの魔女について、いかに考えるべきか。多くの者によって目撃され、しばしば報告されている事例に見られるように、これらは巣の中で、生きている男根のように動き、オートムギや穀物を食べているのだ」[註24]。さらに核心をついて言えば、この話を信じた教会側の人々について、一体どのように考えたらいいのだろうか。
 男根崇拝はしばしば不明確な境界線を越えて、同性愛に踏みこんだ。これは相互の男根原理を崇拝するように教えられた男性間にあっては避けがたいことであった。ときには一種の拡大された同性愛的な崇敬が、至高の男性すなわち神に対して向けられた。ジプシーの男性の間では、儀礼的な自己卑下の表現として、「わたしはあなたのペニスを食べます」hav co karと言った。「たとえば、神に祈って許しを得られるよう懇願する者は、懇願に先立って、『おお、神よ、わたしはあなたのペニスを食べます』と言わなければならないとされていた。しかし他の、供儀として食べられる神々の例を考えてみると、「これがきわめて古いカニバリズムの最後の名残か否かは、一考にあたいする問題である」[註25]。
 男根崇拝は、現代世界のシンボルや諺の中
に今日でも明らかに見られる。しかしその意味は受胎させる能力よりも、死を思わせるものの方が多い。銃、大砲、ミサイルその他の武器は男根のシンボルである[註26]。「ヒット」(命中)と「スコア」(得点、計算)は攻撃と性的出会いの両方を描写する語である。支配力のある男性は「big shots」あるいは「big guns」(ともに大立て者、有力者の意)である。男性の力が破壊の力と結びついたとき、実りを豊かにする「生命の王」は、不幸にも「死の王」に変換した。攻撃的な男性原理の中で、現代社会は、古代の女神の中心思想が失われたことを深く悲しんでいる。すなわち真の力は存続させる力であるという思想である。