なにもしない時間

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2時間でも3時間でもよいから「なにもしない時間」をつくって、砂浜や森や、あるいは「猫の額ほどの」公園でもよいから、ベンチに腰掛けて、あるいは芝に寝転がって、ちょうど頭のなかに積雲が流れてゆく空をつくるようにして、いろいろなことをぼんやりと思い出したり、考えたりしてゆくのがよいと思う。
前にも書いたように、そういうときには、小学校のときに廊下で眼をみはってぼくを見ていたことのある女の子は、ひょっとしてぼくが好きだったのだろうか、とか、花が開く瞬間を見るには、どんなタイミングで待っていればよいのか、あるいは、浜辺でみかけるサーファーたちの話し方が嫌なので、ずっと毛嫌いしてきたが、もしかしたらサーフィンって、やってみたらすごくおもしろいのかな、というふうに焦点をつくらずに考えていたほうがよいと思う。
そうやって意識して自分の時間の感覚をリハビリテーションさせているうちには、頭のなかの積雲の流れと、現実の山を越えて流れてゆく、夏の午後の、雄大で輝かしい積雲の流れとが精確に一致する日がくるはずである。
そのとききみは、自分が自然とついに和解して、自分のもつ時間の感覚が自然がすすんでゆく時間の流れと完全に一致する「安心」の感情に包まれて、涙がでてくるような、何か巨大でやわらかな意識が自分を抱きとめてくれるような、あの不思議な安らぎの感覚を経験するに違いない。
そのあとは、言うまでもない、「自然の時間」がきみを最後の死のときまで、ゆっくりとていねいに、誰にも恐怖心を起こさないやりかたで運んでいってくれる。
「効率」という病んだ思想に酩酊して、さっきまで「青春」という気恥ずかしい名前だが希望にも満ちた時刻にいたのに、あっというまに死を告げる窮迫に身をおかされる、破壊的な社会の生産性から自分を救いだすことが出来るようになるのだと思います。
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