キリスト教で
全ては神の摂理である
全ては神の摂理である
善なる神がすべてを決めている世界である
その中で私に自由意志がある
ここで、すべてを神が決めているなら、
私が何かを決めることの意味はどうなるのだろう
心の貧しい人を救うのがイエスであるなら
むしろ心の貧しいままでいたほうがいいものなのか
そこについては
屁理屈を捏ねないで素直な気持ちで受けとればよいのだ
人間は人間なりに全力を尽くし神の期待に応えようとする
しかしそれでも届かないのが人間の現実である
その場合には神が救ってくださる
その全ては神の計画である
だから人間が全力で神と応答を続けるのも神が最初から定めたことである
これで何の矛盾もない
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親鸞の言う、悪人正機説についても同様である
阿弥陀仏は悪人をこそ救ってくださる
しかしだからといって悪人のままで生きていいのではない
悪人であることを反省し、悪人の部分を少しでも自覚して生きなければならない
しかしそれでも阿弥陀様の心には応じきれない
だからどんなに頑張っても悪人のままなのである
しかしここで微妙な道が通じる
反省すれば偉いというものでもない
偉いと思ったらそこですでに自力道が始まっている
反省しているから少しは偉いと思ったらそれが間違いなのである
しかしそのような間違いをやはりなおも反省しつつ少しでも努力するのが道である
そのような努力は些細なものであり救いの力には成り得ないほどのものであるにしても
そちらに向かうしかないのである
自力を偉いと思ったら間違いであるが
だからといって他力の上に安心し切るのも間違いである
必死で努力するがその努力は忘れ
ただ阿弥陀仏に頼る
そのような道である
これで矛盾はない