隣人の苦しみの意味

“もしも病が治らなかったとしても、「自分の苦しみには神が何か意味を与えている」と思ってしまうのでしょうね。本当はそんなものはないのに。”
こういう声はあるでしょうね。
特に日本のような知的風土における知的エリートたちはそうだろう。
それはそれで一つの時代の一つの地域に起こることでいいと思う。
しかし人類の圧倒的多数が過去にも現在にも、
苦しみの意味を求めて宗教や超越者を夢想したように、
私もまた、苦しみの意味を求めずにはいられない

自分の苦しみについても、隣人の苦しみについても、
意味を求めずにはいられない
唯物主義の怪物のように平気ではいられないのである

あるいは自分の事ならそれまでのことだと言って置けるのかもしれない
しかし隣人が苦しんでいる時
その苦しみには意味が無い、あなたが苦しむのは偶然である、
そう言って終わることは私にはできない

隣人の苦しみの意味が私の生まれてきた意味とつながっているような気もする
横を向いたままこの世界に関心を示さない神を不審がりながらも
やはりその道しかないと思う

どのような経路でかははっきりしないのだが
やはり私も神は私を愛してくださっていると思う
その愛に応答するために私は何かをしたい