"
大小様々な、いろいろな罪の意識が、神様から直で赦してもらえたわけだから大変である。
大小様々な、いろいろな罪の意識が、神様から直で赦してもらえたわけだから大変である。
そのときの私は、感動のあまり、しらふに戻るまで泣いていたのだ。
そして、自分が両親から愛されて育ったことにずっと感謝し続け、私はやり直さねばならない!と、わけもわからず誓ったり―おそらく誤ったキリスト教観の影響で―鐘の音が鳴り、キラキラ上から降ってくる輝きとともに祝福のラッパが鳴り響くといった素晴らしい宗教的体験をした。
あれは神としか言いようがないモノとの接触というべき体験なのだ。
さらには、当時、完全に縁を切っていた悪い知人たちに、感謝とお詫びの電話をかけようと思い危うく連絡をとるところだった。そこで、はっと自分の行動を理解し、それは止めることができた。しかし感動の余韻はあり、引き続きそれに浸っていたのである。
他にも、神とのアクセスではない、特筆すべき宗教的体験もある。
なんといっても神の降臨対話と並ぶびっくり体験として、万物との一体感「全てはひとつ」の感覚である。自分の意識と、身体、色や音や空間にいたるまで、とにかく全てが、ものすごく滑らかにひとつのものとしてリアルに感じるという体験である。
どこまでが自分なのか区別できないような融合体験であり、宗教的な性質、感覚であった。
そして、極めつけは、全てを悟った「真理を手に入れた感覚」つまり全能感というのもあるのだが、これは素晴らしい体験でありながら、とても怖い事実を示唆している。
どういったものかと言えば「これは絶対に真理である」「全てを理解した」という強烈な感覚だ。
しかしながら、恐ろしいことに、中身が何もない!ただその感覚だけが生々しい。
「おお!これが真理か、私は悟ったぞ」という、ただそれだけ。
あるいは、しらふにもどれは実に他愛のないアイデアだったことに気がつけるようなタワゴトを、「究極の真理」だと確信してしまう現象もある。
例として、私が「宇宙創生の真理」として感動に震えたものを紹介しよう。
それは、ノーベル賞受賞者ながら駄目な超能力研究に転向したブライアン・ジョセフソンが、ビデオで「ビッグバンというのは最高精神というものの思考の結果みたいなものでしょうな。一種のESPみたいなものです」といっていたのを思い出し、これまで散々バカにしたことのあるセリフなのに、それをふと思い出すや、「おお、確かに無から有が生まれるのは、精神が思考を生むのと同じだ、最高精神こそがビックバンの起源 、そして真理なのだ!」などと、救いようないほど陳腐な理解を「究極の真理」だと強く確信できてしまったのである。(シラフになるまで)
私にとって、この体験は重要な教訓を教えてくれた。
人間が何かを「真」だと直感し、確信する感覚というのは、知性に由来し、人間が数学における証明を可能足らしめるもので、客観的な外在としての真理というものが先にあり、それと近い何かに知性が接近したとき、理解によって初めて生じるのだと私は思っていた。
だから、ただ「これは絶対に真理である」「全てを理解した」という感覚のみが、独立して生じたという体験は、私の抱く世界像に変更を強いるものでもあった。
そして、私がこの体験から得たことは、宗教にかぶれる人格でも、悟りを開いたという勘違いでも、究極の真理を体験したという興奮でもなく、さらには絶対的真理は精神のみによって知覚可能である、などという結論でもなかった。
そうではなく「これぞ真理だ!」と強烈に直観し、強く確信したとしても、それでも尚、それが無価値であるかナンセンスなものである可能性が、常に存在し続けている、という気づきであった。
思えば疑似科学者やスピリチュアルの連中は、過剰な確信(cocksureness)に無頓着なまま、知的怠惰を重ねている。自分は得難い真理を手にしているかのように達観し、賢人気取りの者も珍しくない。
そう、健全な懐疑精神というものは、知性がそんな風に錆びいてしまうことから身を護るための理性という最期の砦なのだという認識を、神秘体験からも得たわけである。
だからこそ、たとえ何かを強く確信しても、客観的で充分な検討を経ずに、陳腐な主張を究極の真理扱いするような人間にならないために、自分の世界像や宇宙観を構成する知識についてはそれが絶対真であるとは自惚れないことや、そして、健全な懐疑精神の居場所を少しだけ残しておくことが、有用なのではなく、必要ですらあるということだ。
自他問わず人類の可謬性を、口先だけではなく心底から理解することは、大事な内面的な体験なのだろうとも思う。
"
"