瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 崇徳院

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
崇徳院

崇徳院は元永二年(1119年)
鳥羽天皇の第一皇子としてお生まれになり
顕仁親王とおっしゃいました。
顕仁親王が生まれた当時は白河法皇の権力の絶頂期で、
鳥羽天皇も好きにふるまえませんでした。
ことごとに、祖父である白河法皇が
政治にちょっかいを出してきます。
その上、顕仁親王は実は鳥羽天皇の実の子ではなく、
妻である待賢門院と祖父である白河法皇との間の
不倫の子だったとも伝えられます(『古事談』)。
鳥羽上皇が生涯にわたり
息子である顕仁親王=崇徳天皇を憎みつつげたのも、
そのためとも言われます。
一方、白河法皇も顕仁親王が自分の子と知ってか、
ことごとに顕仁親王をかわいがり、
1123年、顕仁親王5歳の時に21歳の鳥羽天皇を強引に退位させます。
崇徳天皇の誕生です。
鳥羽天皇としては、まだまだこれからという時に
強引に退位させられて、おのれという憎しみがつのるわけです。
1129年、白河法皇が崩御すると、
鳥羽上皇の復讐がはじまります。
鳥羽上皇は崇徳天皇が院政を行う権利を奪うため、
1142年、崇徳の腹違いの弟であり養子でもある
体仁親王を近衛天皇として即位させ、
近衛天皇が1155年に17歳で亡くなると、
今度は崇徳の実の弟である雅仁親王を
後白河天皇として即位させます。
1156年鳥羽上皇が没すると、
後白河天皇と崇徳上皇方に後継者争いが起こります。
これに摂関家の内部分裂がからみ、
後白河天皇は藤原忠通と結び、崇徳上皇は忠通の弟頼長と結び、
それぞれ源平の武士を招集して、武力衝突に至りました。
1156年保元の乱です。
結果は後白河天皇方の勝利に終わり、
藤原頼長は戦死。敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、
9年の後に失意のうちに没しました。
死後怨霊になった、皇室を呪いつつ死んでいったなど、
『保元物語』や江戸時代の小説『雨月物語』の中に語られました。
慶応4年(1868年)、明治天皇は
京都御所のすぐ近くに白峯神宮(京都市上京区)を創設し、
崇徳院の魂を讃岐からお迎えしました。
崇徳院の御魂は、実に700年の時を経て、
都に戻ることになったのです。