大名に生(うま)れ申さず 是(こ)れ大なる冥加

" 江戸幕府の知恵者、保科正之(ほしなまさゆき)は、会津・松平家の初代で徳川家康の孫にあたる。第三代将軍・家光の異母弟で、家光と四代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなしていた。
 その保科正之について、こんな逸話が残っている。「小櫃与五右衛門(おびつよごえもん) 会津神公を諷諫(ふうかん)せし事」(諷諫とは「遠まわしに忠告すること」という意味)。
 ある日、保科が儒臣・小櫃与五右衛門に「そのほうが楽しみとしているものは何か?」と聞いた。小櫃はおそるおそる「それは二つあります。貧乏なので驕(おご)るということはできません。もし、私が富んだ家に生まれたら、驕って礼儀の道を忘れたでしょう」と語ったという。
「では、もう一つは何か?」
 小櫃は黙ったまま。答えようとしない。10日後、再び問うと渋々「大名に生(うま)れ申さず 是(こ)れ大なる冥加と 常々天道に対し 有り難く存じ奉る」と答えた。その意味は、〈大名は「家中の者たち」によって、愚者にされる。周りが家来ばかり。機嫌を取り、良いことばかり耳に入れる。その点、身分の低い自分は師匠や友人がアドバイスしてくれるので愚者にならなくてすんだ〉という。
 これを聞いた保科は「阿呆(あほう)者にならないように」と高名な儒学者・山崎闇斎(あんさい)を招き礼節を学んだ。
 この逸話を『名将言行録』は「大名は愚者になる」という"見出し"を付けて、紹介している。 権力者は(どんなに賢くても)次第に愚者になる。"