人間の脳は、魚を取ったり、どんぐりを拾ったりするのに便利なように進化してきた
サイズで言えば数センチから数メートルの範囲の世界をよく理解し、予測できるように進化した
速さで言えば、超スローモーションでもない、超高速でもない、
魚が泳いだり、鳥が飛んだりする程度の速度
だから、相対性理論のような、光の速度の話とかは、感覚として理解しにくい
数式で理解はできるとしても
また、微小の世界として、量子力学とかも、数式を操作することはできるのだけれども、
実感としてありありと感じるのは難しいところがある
シュレディンガーのネコなど
宇宙の膨張の話とかビッグバンの話とか、
人間の体験の内部にある言葉を応用して語ることが適切なのか、疑問がある
日常生活から抽出された数学という道具が
量子力学にも相対性理論にも有効であるというのは
とても不思議な話だ
単に人間の脳が納得するにあたって有効であるだけという可能性はある
科学の観測結果も結局は人間の脳が観測しているわけだから
たとえば、二次元の球は円である
三次元の球は球である
同様に
四次元の球もある
その性質について、方程式で書いて、それを操作して、論じることはできる。
しかし、四次元の球をありありと実感することは、人間の脳には予定されていないと思う。
もちろん、人間にはいろいろなタイプの人がいるから、
四次元の球をありありと実感のあるものとして感覚できる人もいる。
数学的にはとても自然な拡張であるから、それを実感するのは大変結構なことであるが、
そんな能力はちょっと異次元の能力である。正直、生きてゆく役には立たない。
話はそれるが、たとえば、ヨーロッパ語も理解し、中国語も理解し、アフリカの言葉も理解し、
ダンテも、ゲーテも、ギリシャ語の聖書も、孔子も、仏典も、コーランも、源氏物語も、アフリカの昔話も、
原文で読んで理解することができる人は素晴らしいと思うが、
それは、どうせその時代の現地の人は理解していたはずのことなので、人間の脳の理解の範囲として、
異次元というものでもない。
実際には天才に属するし、少数だろうけれども。
そうした天才と、量子力学を数式としてだけではなく、実感を持って生々しく理解したり、
相対性理論の世界の実感を感じたり、
四次元の球を感覚したりするのは、別の種類の天才だろうと思う。
脳そのものが進化していないと無理な話だ。
例えて言えば、ダンテも、ゲーテも、ギリシャ語の聖書も、コーランも、源氏物語も、アフリカの昔話も
原文で理解したいというのなら、多くの人を集めて、翻訳して説明し合えばできることで、
それを一人でやってしまうから、天才というわけだ
しかし、量子力学の世界、存在が確率的であるとか、そんな話は
多くの人が分担してできる話ではない。
量子力学の解釈はいまだに対立もあり議論がかわされていて
興味深い領域である
これは、数式として、確率がどれくらいになるのかという点では異論はないし、観測とも一致する、
しかし、その解釈に対立があるということである
ネコが確率的に生きているというのはどういう解釈が適切なのか
人間の日常生活の範囲では、石ころは中身が詰まっているに決まっていて、
ぶつかると痛いものだ。通り過ぎるなどということはない。
しかし物質の構造を微細に見てゆくと、
中身がぎっしり詰まっているものではない
原子核とか電子とかは、かなり離れて存在していて、その間には何も存在していない空間がある
だから放射線が通り抜けたりする
よく知らないが、宇宙からのミュー粒子とかニュートリノなどは物質を通り抜けて
観測者のそばまで到達するのだろう
X線撮影で、骨と筋肉の透過率が違うから、骨と筋肉を区別することができて、骨折が分かる
可視光線は人間の体を通過することはできない
話を大げさにすると、理屈の上では、天文学的に運が良ければ、人間が普通に歩いて壁を通り抜けることだって不可能というものでもない
しかし、そんなことを考えている間に飢えて死んでしまうか、子孫を残すことができなくて終わってしまうか、いずれかだろう
「うちのお兄ちゃんは困ったものだわ」と妹が不憫に思うパターンである
人間も今現在、進化の途上にあり、親不知を抜いたりするのはその一例である
脳は進化の最先端にあるはずで、いろいろな不思議で役に立たない変化をしていて
その多くは出来損ないとして理解されていると思う
しかしその中に、この世界で生きてゆくうえで有用な変化が生まれつつあるのだろうと思う
それがどのようにして多数派になるものなのか
私にはいまだによく理解できないが、何かのメカニズムがあるのだろう
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分子とか原子の話で言えば、
人間の体を構成している分子はいつも入れ替わっていて、
時間がたてば、昔の分子はすっかり新しい分子に入れ替わっている
それなのに、自己同一性が保持されているのはとても不思議だという話がよく持ち出される
構造を壊さずに入れ替わっているのだから何も不思議はないだろうと思う
分子がその人らしいのではなくて、分子同士で構成する構造がその人らしいのだから
分子が入れ替わっても何も問題はないだろう
ある小説では、
自転車のサドルだったかもしれないが、
ここでは人間と手袋を例えにするとして、
ある人間がいつも使っている手袋があると、
その人の手の分子と手袋の分子とは極めて少量であるが入れ替わっていると考えられる
すると、手は幾分か、その手袋の性質を帯び、
手袋は幾分かその人の手の性質を帯びてくるのだ
というような話を導入としていた
これもまあ、小説の話で、人間の皮膚の表面では、古くなった皮膚の細胞が剥がれ落ちるサイクルが繰り返されていて
その古くなった細胞にその人のその人らしさなんて多分ないだろうから
話としては無理だろうけれども、小説としてはまあいいのだろう
オブライエンという人の小説で、安倍公房が推薦絶賛していた