三十すぎたら運命の出会いはない
―いいか、ハッキリ言っとくぞ。三十すぎたら、運命の出会いとか、自然な出会いとか、友達から始まって徐々にひかれあってラブラブとか、一切ないからな。もうクラス替えとか、文化祭とかないんだよ―
ある程度の年齢になれば、自分をガラリと変えてくれるような出来事を他人に期待するのは、いささかムシがよすぎるということだろう。まばたきもせずに力説する山中聡さんの演技に圧倒されて、僕にとってはひとつのテーゼになっている。三十すぎたら運命の出会いなんてないのだ、と。
恋愛についてのこの格言は、仕事についても当てはまるかもしれない。
「三十すぎたら運命の作品なんてないからな。自分の価値観をガラリと変えてくれたり、いままで想像もしなかった新しい自分をみつけてくれたり、そんな仕事は一切ないんだよ」
といったぐあいに。
わかい俳優の演技がときに感動的なのは、たぶん作品のなかの彼らが、ある意味で本当に傷つき、変化しているからなのだろう。変化とは、痛みをともなうものなのだ。
「運命の出会い」は、それまで信じていたものを根こそぎ奪いさっていく。ある意味でそれは死にも等しい。監督などにおこられておちこんでいる若い俳優を、先輩俳優が、
「どんなに失敗したって、殺されるわけじゃないんだよ」
といって励ますことがある。しかし彼の「死ぬ」という感覚もまた、ある意味ではホンモノなのだ。
「殺されることは絶対にない」ことを知っている俳優には、運命の出会いなんてなかなか訪れないのだろう。そういう危険な代物は思春期とか青春とかいった、わかいヒトビトだけに許されるものかもしれない。自分が何者なのかよくわからず、いま立っている地面がたよりなく感じられ、友情とか永遠とか、目にはみえないものを本気で信じることのできる、思春期のヒトビトだけに。
とはいえ新しい作品に参加するとき、三十三の僕も「これは運命の出会いかもしれない」とやっぱり思ってしまう。ちがっていても文句はいわない。けれども、そうである可能性だってゼロではないのだ。