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「あなたのために良かれと思って」は人を窒息させる。
そう。「良かれと思ってやったことなのに」と叫ぶのは、それが決して本当には「あなたのため」でないからなのだ。
それは「私を理解せよ。私のしたことを疑うな。否定するな。私を傷つけるな」というメッセージであり、たとえ本当に「あなたのため」を思ってしたことであったとしても、「これはあなたのためなのだ!」と叫んだ途端に単なる自己保身のためのエクスキューズと化してしまう。
しかし、もとがどんな善意から出たものであろうと、結果が悪ければそれは悪い。当たり前のことではないか。そもそも、善意というもの自体がごく主観的なものであり、従ってこの世界には絶対的に正しい“善意”など存在しない。あらゆる善意は主観的なものであり、その善意の持ち主の価値観にのみよるものだ。だから、本来誰かの誰かに対する善意を絶対視することなどあるべきではないし、あなたの善意を私に押しつけ絶対視せよと迫るのは大きな間違いなのだ。
そう。それは決して「“あなた”のため」ではない。それは「“私”のため」である。
“私”の不安を払拭するため。“私”を満足させるため。“私”のプライドを満たすため。“私”の理想を求めるため。“あなた”を“私”の思い通りにするため。
親しければ親しいほど、愛していればいるほど、「良かれと思って」は増幅する。当然のことだ。相手のことを思えばこそ、取り越し苦労もするし心配もし、気を遣い心を遣う。「良かれと思って」と思うこと自体が悪いことなのではない。「良かれと思ってしたことだから」と、結果的に間違っていた行為を正当化して疑わないことが問題なのだ。「良かれと思ってしたこと」は全て善である、と相手に思うことを強要するのが問題なのだ。
「良かれ」と思うこと自体は美しく尊いことだ。けれど、「良かれ」と思ったことが本当に全て「良い」わけではない。そして私たちは自分のしたことや考えていることが間違っているかもしれない、ことを知るべきだ。
私たちは人間である。「良い」と思うのは人間の思いである。そして人間は時に(いや、わりと頻繁に)間違える存在である。だから私たちは間違ったことから学んでいかなければならないし、そのためには自らの間違いをきちんと認め、間違えたという事実を受け止めなければならないだろう。
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