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『おおきなかぶ、むずかしいアボカド~村上ラジオ2』(村上春樹著/大橋歩画・マガジンハウス)より。
(「並外れた頭脳」という項より)
【世の中には、どう転んでもかなわないというすごい人がいる。そんなにいっぱいではないけれど、たまにいる。
たとえばロバート・オッペンハイマーがそうだ。オッペンハイマーさんのことは知ってますか? 第二次大戦中、核爆弾開発の中心となったユダヤ系アメリカ人の物理学者で、「原爆の父」と呼ばれている。ずいぶん前に亡くなったし、僕も直接お目にかかったことはないけれど、並外れた頭脳として世界に名を馳せた。
たとえば彼はあるときダンテを原書で読みたいと思い立ち、ただそれだけのために一ヶ月でイタリア語を習得した。オランダで講義をすることになって、「じゃあまあ良い機会だから」と六週間勉強し、オランダ語が流ちょうにしゃべれるようになった。サンスクリット語にも興味を持ち、『バガヴァッド・ギーター』を原典で読みふけった。とにかく興味のおもむくまま、少し意識を集中するだけで、たいていの物事はすんなり習得できてしまう。普通の人にはそんなことまずできないですね。彼が天才であることは、誰がどこから見てもすぐにわかった。
ただしそんな彼にも政治的なセンスだけは欠けていた。夢中になって原子爆弾をこしらえたのはいいけど、その実験を目の前にして「私はなんという恐ろしいものを作り上げてしまったのか」と真っ青になった。広島に原爆が投下されたあと、当時のトルーマン大統領に向かって「私の両手は血に濡れています」と言った。大統領は表情ひとつ変えず、きれいに折り畳んだハンカチを差し出し、「これで拭きたまえ」と言った。政治家ってすごいですね。】
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