感動を伝える技法

小説を書いたり詩を書いたり絵を書いたりするのは
何かの感動や心のなかの動きを伝えたいからなんだろう

もし技術があれば
音楽や映像で伝えたほうがずっと伝わりやすい
テレビCMや映画のように

人間の体験は「バラが美しい」と抽象的に存在するものではない
付随する状況があって
なおさらバラの美しさがしみるのだし
状況によって美しさにもさまざまな差異が生じるだろう

それは正直に言って伝えきれないものだろうし
受け取る側としても「自分なりの受け取り方」をするしかないはずだろう

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普通に詩を書くのではなくて
料理の作り方みたいに感動の仕方を説明して詩とするのも方法なんだと思う

美味しい料理の写真を見たり出来上がりの様子を説明する言葉を読んだりするのもいいけれど
作り方を説明してもらって自分で作った料理を食べてみるのも
美味しさを体験する有力な方法だろう

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感動を伝える技法として料理のレシピみたいに
バラの美しさを体験する方法を説明してもいいと思う

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文章を読む時の基本は
頭から順に読んでいって
映画の映像のように、または、自分が体験しているような五感を伴って、追体験すること
その中で思考体験とか哲学的気づき、宗教的啓示などを追体験することだろう

その点では「体験もの」ならば素直に映画で見たほうが早いかもしれない

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たとえば上司に不当な仕打ちを受けているサラリーマンが語っているとして
その内容がありありと現前するようであればとりあえずは
伝わっているわけだ

精神医学ではそうした「内容」の他に「形式」を検討する
形式のうち典型的なものは精神的な病気を推定させる 

語られる内容を入れている容器の構造である

だからたとえば
上司が無理解で残業続き、手柄を横取りされる、眠れない、イライラする、食欲が無い、引きこもる、などの項目を
並列的に並べたのでは内容の概略が見えるだけで
その人の体験の構造を検分している事にはならないのだ

症例報告は体験の内容と同時に構造を提示する必要がある

たとえばPTSDや適応障害というものは原因に言及していて、これがきっかけだったとは言えるかもしれないが、
決定的ではない
その人の内部にある精神病理の構造がどうなっているのか、そこから病気の診断は出てくるのであって、
原因はパワハラとか、そのような診断をしているのではないのだ

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文章読解の基本は読みながらの体験だろう
そこには「読書体験」と「内容体験」の2つの体験が重なっている

音楽はもっと顕著で演奏される実時間を付き合うのが普通である
楽譜だけ見て感動する人はやや特殊だと思う

絵で言えば多分、描かれた実時間を想像して
自分が描くとしたらどうかと想像するのだろう
その感覚の延長に対象物があり、対象との出会いがあり、対象との特別な意味が浮かび上がるのだろう

詩でも小説でもシナリオでも
最初の発想と、初書きがあるのだろうと思う。そしてそこからいろいろと推敲が始まる。
読む方は多分来れば最初の発想で、これはあとから加えたもので、などと推定したりもする。

このような読み取りと並んで
このような作品を提示している人間の精神の構造、形式はどのようなものかと
いつも二重に読み取っている

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こうなってくると、現実は作家のイメージしたこととずれているはずで、作家は自分のイメージを提示しようとしている、
しかしその提示のために現実と一対一に対応するような素朴な言葉を使うわけではない
たとえばその言葉を選択するのは、言いたいことに言葉が届かない絶望を含んでいるのだとも解釈できる時がある

むしろそのような絶望が伝われば伝達は成功である