(日曜に想う)本土と沖縄、本当の壁 特別編集委員・山中季広
2015年10月4日05時00分 朝日新聞
今年8月24日午前0時45分ごろ、神奈川県相模原市の米軍補給廠(しょう)から火柱が上がった。米軍消防から車両3台と8人が出動、市消防からもポンプ車や化学車14台と51人が駆けつけた。
装備も人員も市消防がまさる。だが米軍との取り決めで市消防は軍の指揮下に入らざるをえない。軍の指示は「保管物が判明するまで放水は待て」。放水開始は午前6時56分だった。
補給廠監視グループ代表の沢田政司さん(63)は当夜、サイレン音を聞いて現場へ走った。「せっかく臨場した市消防が朝まで放水できない。おかしいと思いませんか」
沖縄県内では、事件や事故の際に立ちはだかる米軍の壁が格段に高い。11年前の夏、沖縄国際大学構内にヘリが墜落した事故では、機体に近づこうとする警察や消防を米軍が阻んだ。
同大の前泊博盛教授(54)は当時、琉球新報の記者だった。「警察や消防だけでなく県市の職員、記者にも屈辱でした。海兵隊員たちの尊大な態度に日米地位協定の本性が見えました」
研究室の眼下に輸送機オスプレイが見える。事故の多さに不安が高まった3年前、時の野田佳彦首相は「米政府の方針。日本がどうしろこうしろと言う話ではない」と発言した。
あれこそ日本の現実です、と前泊氏は言う。「沖縄だけじゃない。地位協定と特例法で米軍は日本の航空法の主な規制を免除される。オスプレイは沖縄でも本土でも超低空を飛べる。東京大学構内に落ちても米軍は警視庁や東京消防庁を追い払えるのです」
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広く知られている通り、米軍が日本の法規に縛られない状態は占領期にさかのぼる。米軍は占領終結後も特権の多くを持ち続けた。日本側にも駐留継続を望んだ人が大勢いたからだ。
関西学院大学の豊下楢彦・元教授(70)の研究によれば、昭和天皇もそのひとりだった。
昨年刊行された「昭和天皇実録」が言及した米側報告書によると、昭和天皇は沖縄駐留について「25年ないし50年あるいはそれ以上の長期」を求めた。訪米する外相に向かって「米軍撤退は不可なり」とわざわざ念を押されたことを示す手記などもある。
何のためか。豊下氏によると、ひとつはソ連など共産勢力への恐れ。日本でクーデターが起きれば天皇制は覆されると考えた。もうひとつは軍部復活への不安。戦中の不信もあって「いつか刃を自分に向ける」と警戒した。
「象徴天皇として生きながら、危機が迫れば元首のごとく外交に乗り出す。研究すればするほど、そのリアリストぶりに魅せられました」
現実の駐留政策に天皇の意図がどれほど反映されたかは知るよしもない。長い駐留を願う声は各界各層にあった。ただ米軍にすれば、そうした声は渡りに船だった。日本からの早期撤収を訴える国務省を退け、占領終結後もほぼ望み通りに占領状態を継続した。
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国外で取材するたびに痛感することだが、沖縄の重い現実は海外では悲しいほど知られていない。東京をぐるりと囲む米軍の存在はさらに知られていない。基地被害を説明すると「なぜ日本人は黙っているのか」と問い返される。「君ら東京の記者が政府寄りすぎるからだ」と言われたこともある。
放水できない消防、捜査できない警察、オスプレイ配備に何も言えない首相――。属国か属領のごとく扱われる点では本土と沖縄に違いはない。
翁長雄志知事は先月末、国連人権理事会で沖縄の基地問題を訴えた。沖縄の人権がゆがめられてきたのはまぎれもない事実である。同時に日本の主権もゆがめられたまま70年が過ぎた。基地のもたらす同根の苦難を思えば、いっそ官房長官と知事が肩を並べて国連に訴え出てもおかしくはなかった。
菅義偉官房長官は翁長知事の国連スピーチを批判した。「国際社会で理解されない。強い違和感を覚える」。その発言に私は強い違和感を覚える。