昔の話
ナチスドイツはアウシュビッツにユダヤ人絶滅のための収容所を建設した。
今日も数多くのユダヤ人がトラックで送られてきた。
ユダヤ人たちは、ナチスの担当官によって、
強制労働の一群と、焼却処分の一群とに分けられる。
いまも新しく到着したユダヤ人たちは行列を作り、
自分が強制労働か焼却処分かに選別されるのを待っている。
選別を担当する男はしばらくこの仕事をしていて、自分の強固だと思っていたキリスト教の信仰が
揺らいでゆくことを感じていた
神ではなく、自分が、人間の生死を決定している、間違ったことだ、しかし、神は沈黙したままである
どうしたことか
あの煙突から上がるユダヤ人たちの焼却後の煙を神は沈黙したままで見つめているのか
なぜ自分などに生死の選別などできるはずがあるだろう、またなぜ許されるはずがあるだろう
目の前を行き過ぎるユダヤ人一人ひとりの特性にはなるべく注意しないようにして機械的に振り分けていった
目の前に二人の子供を連れた美しい女が現れる
娘は5歳くらい、その弟は2歳くらい、女は20代後半らしい
女は言う、「私はユダヤ人ではない。ポーランド人だ。間違って連れてこられた。助けて欲しい。あなたなら私を助けられる。子供が二人いる、どうか助けて欲しい」
男はうんざりしながら思う
そしてさっきまで考えていた、自分が生死を選別している問題と結びつけた
邪悪な考えが浮かんだ
「よろしい。助けてやろう。お前はドイツ軍将校の秘書として働けばいい。ただし、子供が二人もいては無理だ。一人は助けてやろう。お前とその子は一緒に生活するがいい。あとの一人は残念ながら焼却場に行ってもらう。どちらの子を助けて、どちらの子を焼却場に送るか、お前が決めるんだ。」
「そんなことはできません。どちらも私の命より大切な子供です。もしできないなら、三人とも死んだほうがましです。」
「いいだろう。それでもいい。お前は選ぶことができる。三人とも死んでもいい。お前と子供一人だけ生き延びてもいい。あのゲートを、三人でくぐるか、どちらかの子供一人だけをくぐらせて、お前ともう一人の子供はむこうの区画で生き延びるか、どちらでもいい。ゲートの手前で決めればいい。」
列は粛々と進み、ゲートの手前まで来た。女は歩く娘の手を引いて、息子を胸に抱いていた。
いよいよ決めなければならなくなった時、女は、息子を抱いたまま列から離れ、娘の手を離して、娘から目を背けた。娘は「ママ!」と叫んだが、行列の流れに押されて、数秒のうちに遠ざかっていった。
女は激しく泣いて、後悔していたが、結局、二人の子供のうち一人を選別したことに変わりはなかった。
女が、自分の命と、息子の命を選び、娘の命を見捨てた。この選択を、ナチスの担当官は見つめていた。結局そうするしかないだろうことを予想していた。そしてそのことは人間の宗教的信念の根本を破壊することも知っていた。おそらくこの女は、心底では神を信じられない人間になってしまうだろう。それでいい。それがこの世界だ。
沈黙したままの神が私には不可解だ。
一ヶ月程度は二人で住むことが許されたものの、息子はその後すぐに焼却処分された。女だけが残った。
どうせ二人の子供の両方を焼却してしまうなら、あのときなぜ私に選ばせたのか。女は泣き続けた。
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一つは、生死を選別する問題、それに関係しての神の問題である。
そしてもう一つは、選ばれる側の問題である。
選ばれる場合、理由があるかもしれない、あるいは大して理由はないのかもしれない。しかし結果は決定的に違う。
何より心が壊れるのである。
選択する側の心の悩みは、むしろやや高級かもしれない。
選択される側の心の傷付きはもっと低次元でもっと強烈だ。
同じような選択はいつもどこでも行われている。複数の人間がいれば、より愛されるものとそうでないものの区別が生まれる。
その時点で心が傷つく。いちいち嘆いてもいられない、泣いていても仕方がない、だからなるべく感じないようにしていきてゆく。
しかし立ち止まって考えれば、あなたは捨てられた娘かもしれないし、選ばれた息子かもしれない。
捨てられた娘は二度と母親を愛せない。
選ばれた息子は罪責の痛みに生涯苦しむことになる。
ナチスの担当官は、二人の子供はその場で焼却処分に、女は秘書として働くようにと宣告すれば、各人の心の傷は少なくてすんだ。しかしそれではナチスの担当官が傷ついたままとなり、信仰を剥奪されたままになる。
「三人で行きていけないなら三人とも死んだほうがいい」と言った女の心のからくりを暴くことができるとナチスの担当官は思いついた
その結果として、娘は、「私は選ばれなかった娘だ」と絶望することになる
女は「私は息子を選んで、娘を見捨てた女だ」と自責することになる
世界には選ばれなかった子供が溢れている
一見愛情豊かに育ったと見えていたとしても内面は複雑であることも多い
「自分は結局選ばれなかったのだ」と感じながら、それでも生きてゆくのが人生である