カントが苦悶していたアプリオリとアポステリオリの間で、ウィトゲンシュタインはその二つをすっぱりと断ち切ってあっさりと整理してしまった。
論理はアプリオリである。
論理は内的である。
論理は分析的である。
論理は形式的である。
論理は必然的である。
論理は超越論的であり、先験的である。
論理は語りえない。
論理はアプリオリである。論理法則は現実世界がどうなっているかに関係なくすべて決定される。現実世界に関係なく決定されるのだから、経験を必要としないでその真偽が決定できる。これを「アプリオリ(先天的)」と言う。
論理は内的である。ある対象にとってその内容を持たないことを論理的に考えられないことを「内的」と言う。命題のその内容が論理を持たないことが考えられないから、当然、論理的な発言の内容は内的である。
論理は分析的である。論理法則はその命題を示す文章自身によってのみ、その真偽が決定される。これを「分析的」命題と言う。
論理は形式的である。世界を見分けようとするとき絶対に必要なフレームが論理である。論理に当てはめることで世界ははじめて意味のある世界として立ち上がる。
論理は必然的である。世界がどうなであろうと、論理形式は必ずその形になるのである。
論理は超越論的である。先験的である。世界を意味あるものにするために当てはめるフレームが論理であるという意味で超越論的である。世界がどうなっていようと論理は論理として真偽が問われることは無い。世界がどうなっていようと論理には関係ないという意味で先験的である。
論理は語り得ない。世界がどうなっているかとは関係なく論理形式が形成され、その形式を当てはめることで世界の様子ははじめて語り得るものになる。しかしこのとき論理形式自体は語ることができない。論理の側は語り得るものではないのだ。
この、論理の側の、フレームと言えるべきモノ、アプリオリで、内的で、分析的で、形式的で、必然的で、超越論的で、先験的で、語り得ないモノがある。カントの言う形式の側である。ウィトゲンシュタインは時間や空間や色を例として挙げているが、さまざまな形式があるだろう。その中でも論理は絶対に必要な形式であると言う。
一方、
世界の事実は、アポステリオリである。
世界の事実は、外的である。
世界の事実は、総合的である。
世界の事実は、経験的である。
世界の事実は、具体的である。
世界の事実は、偶然的である。
世界の事実は、語り得る。
この、世界の事実の側の、アポステリオリで、外的で、総合的で、経験的で、具体的で、偶然的で、語り得るモノがある。カントの言う物自体の側である。
ウィトゲンシュタインは、この、語り得る側と、語り得ない側とを明確に区別し、線引きする。形式の側に配置されるモノは必ず、アプリオリで、内的で、分析的で、形式的で、必然的で、超越論的で、先験的で、語り得ないモノでなければならず、世界の事実の側に配置されるものは必ず、アポステリオリで、外的で、総合的で、経験的で、具体的で、偶然的で、語り得るモノでなければならないのである。
だから、ウィトゲンシュタインの世界では「アプリオリな総合」などあり得ない。そして、語り得る側のみを語り、語り得ない側については沈黙せよと言う。