妄想と迷信と嘘と宗教の関係
妄想というと孤独なもので、訂正不能、説得不可能な、信念
迷信は、ある程度集団内で共有される程度のもの、ただし科学的根拠はない
嘘は、人を騙すためのものであるが、宗教の関係者の中でも、本気で信じている人と、仕事だからと思っている人とがあるのだろう
仕事だからと思っている人は嘘
本気で信じている場合、法律的に宗教団体と認定されていれば宗教
認定されていなければ、集団的妄想、場合によっては迷信・習俗・習慣
宗教については、
典型的なものはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という、兄弟的な宗教であるが
内容を読んでみると、強迫性障害的であったり、うつ状態、躁状態であったり、あるいは被害妄想的であったり、いろいろな要素が入り混じっていて、色々なタイプの人を引き付けるようにできているのだと考えられる
書かれてあることは、被害妄想であったり、誇大妄想であったり、あるいは罪責妄想であったりするのだが、
書物を読んで、一人で神と向き合うということも十分可能であるようにできている
そして一方で、世俗の社会の中に、教会やさまざまな集団があり、その場面では、
集団力学として運動する
神と一人で向き合う人にとっては教会や日曜教室やバザーとかチャリティとか、関係ないことに属する
また逆に、自助グループのようなものを求める人にとっては、一人で神と向き合うという、
たとえば聖書主義や無教会主義のようなものはニーズに合わないことになる
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アメリカでは、ご存知のように、進化論者(無神論者の側)と創造説(キリスト教福音派、原理主義的)の対立に象徴される、科学と宗教の、バカバカしいような先鋭な対立があって、みんな発言に気をつけている
そんな中で、祈りというものは効果があるのかどうかということで
二重盲検試験が行われたこともある
病気の人のために祈った場合と祈らない場合と、比較して、祈った場合に、治療がうまくいくのかどうかというテストである
結果は当然であるが、祈っても祈らなくても変わりはなかった
有神論者のしぶといところは、だからといって、祈りが無効だとはいえないと食い下がるところである
それぞれに考えれば良いことであるが
おまけとして、(1)他人が祈ってくれていることを知らないで祈ってもらった人、(2)他人が祈ってくれていることを知らないで祈ってもらわなかった人
の主要郡の他に
(3)誰か知らないが自分のことを祈ってくれていると知っていた患者さんについても研究された
(1)と(3)は、祈ってもらったことは同じであるが、
祈ってもらったことを患者さんが知っているか知らないかの違いである
(3)の人は応援を感じて効果を感じるかといえばそうではなくて、実験の結果は、むしろ悪化したらしい。理由としては、そんなに祈ってもらう必要が有るほど自分は悪いのだろうか、希望がないのだろうかなど、心配が増えることが理由らしい。
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日本で神社にお祓いしてもらう時に、公費で支払うという場合、それは政教分離の原則に反するのではないかという裁判があり、お祓いは習俗風習であるから宗教とはいえないとの判決だった。
役所が神社にお祓い料を払うという習俗がいつの頃から発生し定着したものか知りたいものだが
現代的科学の立場から言えば、無作為割付二重盲検法で、効果があるのかどうか、エビデンスは取れるのであるから、そのデータがあれば、有力な判断材料になるものと思われる。