"かつては、諸宗教がバラバラで、なおかつ先鋭に対立し、頻繁に戦争していた。
現在でも一部は宗教戦争である。
しかしそのような状況の中であっても、
諸宗教の共通部分を取り出して、
神に至る道はいろいろあるけれども、
最終的に行き着く場所は同じではないかという
積極的な論があり、宗教的多元主義と言ったりする
もちろん、そのような妥協は一切できない、
あくまで自分たちの道だけが正しいのであって、他の道は間違いであるという立場も強固である
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さて、諸宗教をつなぐものとしての宗教的多元主義は大変よい試みであると思う
学問で言えば比較宗教学の分野がそれに近く、
どこが似ていて、どこが違うのか、なぜ似ているのか、何故違っているのか、考える学問である。
日本の場合、仏教を輸入受容する期間があったわけであるが
その際に、先行して存在していた諸宗教と完全に対立するというよりも、
本地垂迹説などのようにとり込んだり、継ぎ合わせたり、つじつまを合わせて接ぎ木しているようなところもあり、
開くので対立して、相手全員を殺してしまうまで戦いをやめないというような態度ではなかったように思う
キリスト教の体系ににしても、国家神道を構想するに当たり大いに参考にしていたらしい。
このあたりの柔軟性は日本の特性として評価して良いのではないかと思われる。
どこかの地域の宗教では唯一神であったものが
日本に来るといろいろな神様の一つになり、あるいは形を変えたものとなり、本質的には同一とか、
そんなことにまでなってしまう
究極的に融和的なわけです
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そこまで言ったら、あとは、その諸宗教のサークルの中に、無神論者とか素朴唯物論者とかも入れたらいいと思う
そして違いを論じることも大切だろうが、共通点を確認し合い、生きることにおいて、妥協できる点もあるのではないかと考えてみようではないか
無神論者とか不可知論者を入れると諸宗教における多元主義とは言いにくくなるのだけれど、
無神論者も不可知論者も、理性をあくまで信じるという点では宗教の一種のようなものだと言えないこともない
しかし宗教というのには抵抗があるので
諸信念についての多元主義的観点
とでも言えばいいのだろうと思う
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とても極端な話、無神論者は、宗教を知らず、人間の心を知らず、場合によっては
人を騙しても殺しても平気な人というようなイメージで、強固なキリスト教的文化の中では
捉えられることもある。無理もないことだと思う。
アメリカ的福音派的傾向からすれば、無神論者は倫理も道徳も愛情も、およそ人間の人間らしい部分というものに欠けている、怪物のように思われるだろう
そこに日本人のように科学技術を応用する人たちが無神論的だというならば、恐怖するだろうと思う
そして最後の審判の日に地獄に行く人達なのだと哀れみの目で見るものなのだろう
無神論者でも、危険ではないし、宗教的感情は理解できるし、ほとんど同じものを倫理の名で共有できるのだということを知ってほしいと思う
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