安保法制問題点まとめ

安保法制に関して 採録

第1回 「必要最小限度に…」の礒崎補佐官の弁明は口先だけ「法的安定性は関係ない」と言い放った礒崎陽輔首相補佐官は、3年前から、「立憲主義」は「意味不明」であるといった反知性的“放言”を繰り返してきた。とはいえ、国会に参考人招致された礒崎氏は問題発言を取り消し、晴れて「法的安定性を大切にする礒崎さん」として生まれ変わった。 では、彼(及び政府)が大切にする法的安定性を担保する基準とは何か。礒崎氏はツイッターで「自衛権は『必要最小限度』の枠内にとどまるべき、という基準により法的安定性は保たれています」と書いている。つまり、「必要最小限度」という概念が「法的安定性」を担保するという。 限定的な個別的自衛権を認めた47年見解における旧3要件にも、昨年7月の閣議決定で認められた限定的集団的自衛権の行使を認めた新3要件にも、武力行使のための「第三要件」として、「必要最小限度」という概念が措定されている。つまり、日本は、自衛のための措置をとる場合、その措置は、必要最小限度の武力行使でなければならないのだが、実は新・旧3要件における「必要最小限度」は意味合いが違う。個別的自衛権の場合、我が国に対する外国の武力攻撃があるわけで、目の前の火の粉を払うための「必要最小限度」は、ある程度明確である。火の粉を払いさえすればよく、しかも、この場合の自衛の措置は、自国で判断しコントロールできる。 一方、日本を守る米艦船に他国がミサイルを撃ち、日本は、存立危機事態を認定し、その存立危機事態を「終結させる」ために、集団的自衛権で攻撃国に対して「必要最小限度」の武力攻撃をする場合はどうか。 米軍はもちろん、米艦船を狙ったミサイル基地を即座に破壊するだろうが、絶対にそれだけでは終わらない。当該事態を終結させるために攻撃国の全てのミサイル基地を破壊することになるだろう。すると、日本にとって、存立危機事態を排除するための必要最小限度の武力行使とは、攻撃国の全ミサイル基地を破壊することになるのだろうか?これは、ほぼ敵国の殲滅と同義であり、明らかに憲法9条の枠内で認められるべき「必要最小限度」を超えてしまう。重要なのは、個別的自衛権の場合は、自国で判断できるが、集団的自衛権を行使し、他国の防衛と協働した場合、我が国だけでは判断もコントロールもできないという点だ。もし、戦闘の最中、日本だけが「必要最小限度を超えるから引き返す」と言えば、それこそ安倍首相の言う「世界の平和への貢献」など画餅になる。米国とともに他国の全ミサイル基地を叩くのであれば、政府自身が行使不可能と述べる、いわゆる「フルスペック」の集団的自衛権になってしまう。 このような可変的な基準を「法的安定性」の中核に据え、あたかも本法案に「歯止め」があるように振る舞う礒崎氏(及び政府)は、「法的安定性を大切にしている礒崎さん」とは程遠い。このような磯崎氏を首相補佐官として本法制の中核に据え、3年間も「放言」を許してきたのは、礒崎発言が安倍政権そのものだからである。建前と中身が矛盾しながら、嘘と欺瞞を押し通す政権が言う「必要最小限度」には最大限の警戒が必要だ。
第2回 ただの妄想の法案化 “存立危機事態”に立法事実なし新たな法を制定するときには、その法の制定の必要性を支える「立法事実」が存在する。「立法事実なき立法」は、ただの妄想であり、いわんやこれが違憲の問題にわたる場合は、ただの「悪夢」である。 今回の安保法制では、新たに武力攻撃の概念を広げ、我が国と密接な他国に対する外国の武力攻撃(「存立危機武力攻撃」という)により、我が国が「存立危機事態」に陥ると、限定的集団的自衛権が行使できる。つまり、存立危機事態として想定されているものが、本法制の立法事実になるのだが、そんな事態がありうるのか。 存立危機事態防衛の基礎になる(1)【間接攻撃型=ホルムズ海峡】と(2)【直接突発攻撃型=日本海有事】に分けて考えてみよう。 まず、政府がよく言及する(1)ホルムズ海峡事例だが、米国が中東の第三国と戦闘状態になり、ホルムズ海峡に機雷敷設されても、機雷敷設行為をもって我が国の存立危機事態にはならない。石油ルートが遮断され、150日間の備蓄期間も経過し……餓死者が出るような事態になったときに初めて存立危機事態を認定し、そこからさかのぼって、150日前の機雷敷設行為を存立危機武力攻撃と認定する。この場合、この間に他国が機雷掃海した場合や、ホルムズルート以外の石油ルートが確保された場合(経済的不利益のみの場合)は、存立危機武力攻撃はなくなったことにするのか。おそらく、他国だって、手をこまねいているわけではないだろうから、そもそも、ホルムズ事例で存立危機事態に陥ることがあるのかどうかは疑問だらけだ。(2)日本海有事型でも、日本海近海で第三国の米国への攻撃があった場合、その一撃目の直後に米国は第三国に反撃をするであろうから、現実に一撃目を存立危機武力攻撃と認定する時間的余裕などない。 つまり、従来の自衛隊法にある「我が国に対する武力攻撃」は、それが行われれば即認定可能であるのに対して、存立危機武力攻撃は、その攻撃があった段階で、それが存立危機武力攻撃なのかどうかはわからず、攻撃による結果から逆算して事後的・遡及的に当該攻撃が存立危機武力攻撃であったという評価を含んだ認定をするため、不明確さを拭えないし、非現実的な話になってしまう。 結論として、(1)ホルムズ事例で現実的に我が国が存立危機事態に陥ることは考え難く、(2)日本海有事事例では、現実に存立危機事態防衛をすることは不可能である。また、もし、我が国と密接な他国への武力攻撃があれば、存立危機事態もほぼ自動的・推定的に認定するのであれば、それは政府の禁止する「フルスペックの」集団的自衛権そのものになる。 存立危機事態防衛を合憲的に基礎づける必要性が考えられる事象はなく、従って、存立危機事態防衛の立法事実は見当たらない。ないものをあると言い、本法制を成立させるならば、それは悪夢に他ならない。

第3回 武力行使に歯止めなし 新3要件は法律に明記がない安倍政権は、変わったものを変わっていない、あるものをない、できるものをやらない等と強弁しているが、今回は書かれていないものを「書いてある」と言っていることを問題にしたい。書いていないのが“日替わりランチのメニュー”ならいざ知らず、集団的自衛権行使容認の肝ともいうべき「新3要件」なのである。 新3要件につき、第1要件の存立危機事態は、事態対処法3条4項に規定されているが、第2要件の存立危機事態を排除するのに、武力行使以外に“国民を守るために他に適当な手段がないこと”、第3要件の武力行使が“必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと”については、今回の安保法制において、明記されていないのだ。 第2要件は、事態対処法第9条2項1号に一応の規定があるが、これは、有事の際に、政府の作成する「対処基本方針」に第2要件を記載せよ、という規定で、武力行使の要件として規定されているわけではない。分かりやすく言うと、実際に自衛隊が防衛出動中に行った武力行使が「他に適当な手段がない」という要件を満たしていなかったとしても、法律上違法とする根拠規定がない。つまり、第2要件は法律上の歯止めになりえない。第3要件については、法律上、武力行使は「事態に応じ合理的に必要と判断される限度」(事態対処法3条4項)で行使せよとの規定がある。これは、自衛隊の発足経緯からしても、警察官職務執行法上の「武器使用」基準と合わせたのは明らかだが、「合理的に必要」とは「必要最小限度」ではない。専守防衛に枠づけられた個別的自衛権の法体系下で、自己への急迫不正の侵害を排除するという文脈であれば、「合理的に必要とされる限度」と「必要最小限度」はかぶるが、集団的自衛権行使の文脈では違ってくる。必要最小限度は自国のみでコントロールもできないし、法律に書かれている「合理的に必要とされる限度」の武力行使とは「存立危機事態」を「終局」させるために「合理的に必要とされる限度」という意味だ。存立危機事態を排除するために合理的と判断されれば、どこまでも武力行使ができることになってしまう。 政府は、「どこまででもなんてしない」と言うだろうが、それならば、法律にそのように明記すべきである。さらに言えば、第2要件は、政府が公明党との与党協議に基づいて「歯止め」として盛り込んだ規定のはずだが、法律上骨抜きになっている。公明党は説明されているのだろうか。 政府は「いわゆる3要件は全て法律に明記されている」(中谷防衛大臣・平成27年7月30日平和安全特別委員会)と繰り返すが、法律上は全く反映されていないし、嘘である。こうした、「口だけ」的な法案と答弁の齟齬・乖離は本法制のいたる所に散らばっている。政府の「できない」は法律上「できない」のか、口先だけかを注視せねばならない。
第4回 「専守防衛に変更はない」という首相答弁はウソだ日本国憲法9条の下で許される自衛権に看板をつけるとしたら、それは「専守防衛」である。この看板を掲げる個別的自衛権は、「必要最小限度」等の制限により、国際法上の個別的自衛権よりもさらに狭い「限定的」個別的自衛権である。これこそが、日本オリジナルの自衛概念であり、憲法9条の下で自衛の措置を合憲化する、孫悟空の頭の輪であった。 一方で、安倍政権は、本安保法制において、専守防衛の概念は「いささかも変更していない」と繰り返し答弁している。これは、明らかな嘘だ。 防衛省の公式見解によれば、専守防衛とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢」である。通常の判断能力を有する一般人の理解において、この定義が集団的自衛権を許容していると読み取れるだろうか。また、ここにいう憲法の精神とは、正しく、守りに徹し、侵略戦争及び先制攻撃の全面否定、ということである。しかし、政府は7月28日、民主党・大塚耕平参院議員との質疑において、相手の攻撃の意思を「推測」し、政府の裁量で、新3要件を充足したとして、存立危機事態を排除するための武力行使を行う可能性のあることを明らかにした。 我が国への攻撃もなく、その意思も確認できなくても、「推測による裁量」で武力行使はできるというのだ。 実際の攻撃はおろか、その意思もない他国への攻撃は、「先制攻撃」に他ならない。「先制攻撃」という「専守防衛」の対極に位置する概念を認めることは、専守防衛の破棄ないしは解釈による全面変更であり、どちらにしろ「専守防衛」は「いささかの変更もない」という首相答弁は嘘である。 自衛権を制約するために合理的自己拘束としてはめていた「専守防衛」という孫悟空の頭の輪を外してしまえば、自衛権は凶暴な大猿と化し、先制攻撃へと姿を変え、誰にも制御不能になる。三蔵法師のいない「日本国」ご一行において、この暴走の終極的な責任をとるのは「最高責任者」と自負する安倍総理ではなく、我々国民である。私たち自身が、目に見えない「専守防衛という概念」に無自覚であれば、「いささかの変更もない」という嘘の下、その概念は不可視的に変更されてしまう。我々は、「専守防衛」という“憲法の精神”を自省的に再考し、この一線を絶対に譲ってはならない。
第5回 米軍の兵站を担う後方支援活動も「違憲」である今回の安保法制について、私は「違憲3点セット」という分類をしている。(1)集団的自衛権の違憲(2)後方支援の違憲(3)自衛隊の武器使用の違憲をあわせて、違憲の“3点セット”である。 このうち集団的自衛権の違憲については、国民の中でもある程度認識が広がっていると感じている。「我が国」を防衛すする個別的自衛権しか認められなかった日本国憲法において、いわば集団的“他衛権”たる他国防衛を認めるのは、違憲であることは、今年6月4日に憲法学者3人が本安保法制に「違憲」を突きつけたことも相まって、集団的自衛権の違憲は定着しつつある。 今回から論じたいのは、後方支援の違憲性である。 今回の法改正において、いわゆる周辺事態法が重要影響事態安全確保法に改正され、新たに「重要影響事態」という概念が創設された。我が国への直接の武力攻撃はないが、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」を「重要影響事態」と呼び(つまり有事でなく平時)、この場合に、米軍等への「後方支援活動」を行えることになっている。前回まで見てきたとおり、集団的自衛権行使の場面である「存立危機事態」には立法事実はなく、ホルムズ海峡や日本海有事での存立危機事態認定は可能性が低い。しかし、この重要影響事態での後方支援は、兵站活動として、「アーミテージリポート」でアメリカから求められていたもので、今年4月の“新”日米ガイドラインにも追記されたミッションである。すなわち、アメリカが求めているのは存立危機事態防衛ではなく、重要影響事態における後方支援たる「兵站」活動となる。 アメリカは日本の兵站活動を前提に軍事費の削減予算をたて、全世界で展開する米軍の武力行使の兵站の肩代わりを日本に望んでいる。そのために、本改正法案は「周辺事態法」から地理的な制限を取っ払い、世界中でアメリカの兵站活動ができる建て付けとなっている。 具体的に、この「重要影響事態」における「後方支援活動」では、兵員の輸送等の役務提供、さらに本改正によって、発艦直前の戦闘機への給油活動、弾薬の提供を含む物品提供が行われることとなった。ここで強調したいのは、後方支援が行われる「重要影響事態」については、存立危機事態の新3要件のような「要件」が存在せず、かなり曖昧な「総合判断」による認定で、派遣が可能という点だ。 しかも、重要影響事態は、存立危機事態及びPKOでの自衛隊派遣と両立するため、認定の緩い後方支援で自衛隊を派遣し、その後に存立危機事態へ発展するということも考えられる。「後方支援」という牧歌的な響きに包まれて、「全世界アメリカ支援法案」となっている現実を見過ごしてはならない。
第6回 米国への後方支援は武力行使そのものだ読者の方にアンケートをとりたい。〈自衛隊が後方支援として「発艦直前の米軍の戦闘機に給油・弾薬の提供をすること」は、米軍の武力行使と「一体化」しているか。YESかNOか?〉 憲法9条1項は「武力行使」を禁止しているため、いわゆる「自衛のための措置」ではない文脈で、我が国は他国に対する武力攻撃も、武力攻撃に準ずる行為(兵站行為)もできない。しかし前線で戦う米軍に対して、「現に戦闘行為が行われている現場」でない場所からの後方支援であれば憲法違反にはならないとしたのが今度の安保法制だ。これは世界では通用しない、憲法9条下の日本独自の概念である。 さて、冒頭の質問に戻る。本改正法案で、自衛隊は、発艦直前の米軍の戦闘機への給油・弾薬の提供が可能となった。感覚的に、この行為が米軍の武力行使と一体化していないというのは困難だが、論理的に考えても同じである。それは日本がやろうとしていることを逆の立場、すなわち、日本が攻撃されている場合から考えれば明らかである。我が国がA国と戦闘状態にあるとして、我が国を攻撃しているA国に対して、B国の輸送艦が、近接した公海上でまさに発艦直前のA国の戦闘機に給油及び弾薬の提供をしている場合、A国はもちろん、B国の輸送艦も我が国の個別的自衛権の対象となるはずである。もしB国が個別的自衛権の対象とならないとし、攻撃しなければ、A国への補給は断てず、攻撃され続けることとなり、安倍総理の強調する我が国の防衛を放棄しているも同然になる。 つまり。B国が攻撃対象とならないという帰結は、我が国が後方支援をしたい(「後方支援は武力行使と一体化していない」としたい)あまりに、立場を逆転した場合の攻撃対象を矮小化し、我が国の防衛を犠牲にしていることになる。しかし、B国も個別的自衛権の対象になるとすれば、まさしくB国の行為は武力行使または武力行使と密接に関連した兵站行為となるので、当然、攻撃対象になり、裏を返せば、我が国が行おうとしている後方支援はまさにB国の行為、つまり武力行使または武力行使密接関連兵站行為=「武力行使と一体化」しているのである。B国の補給行為は、我が国が攻撃される場合は攻撃対象になるが、自分たちが行うときは武力行使と一体化していないとするのは、ご都合主義的解釈である。後方支援の地理的制限を外し、自衛隊の世界展開を決めた瞬間に、自衛隊への法的評価も「日本独自」から「グローバルスタンダード」に変更する。これを直視しない防衛政策では、日本は守れないことになる。
第7回 法律の世界で自分でルールを作るのは許されない野球選手が、自分で「ルール=基準」を作ってプレーできてしまえば、もはや何でもアリである。前回、自衛隊の後方支援が武力行使になるかの判断基準は「武力行使と一体化」しているか否かであると論じた。次に、「一体化」しているかの判断基準の要素が何かと言えば、大森政輔元内閣法制局長官が定立した、いわゆる「大森4要素」である。 それは、(1)戦闘活動が行われている、または行われようとしている地点と当該行動がなされる場所との地理的関係(2)当該行動の具体的内容(3)他国の武力の行使に当たる者との関係の密接性(4)協力しようとする相手の活動の現況等諸般の事情――を総合的に勘案するというものだ。この判断「要素」を基に、「一体化」判断の際の「要件」を定立したのが今年6月26日の平安特別委員会での安倍総理答弁である。 前回から問題にしている「発艦直前の戦闘機に給油・弾薬の提供をすることが、武力行使との一体化にあたらないか」という点につき、(1)地理的関係については、実際に戦闘行為が行われる場所とは一線を画する場所で行うものであること(2)支援活動の具体的内容としては、補給や整備であり、戦闘行為とは異質の活動であること(3)自衛隊は他国の軍隊の指揮命令を受けるものではなく、我が国の法令に従い、自らの判断で活動するものであること(4)協力しようとする相手の活動の現況については、あくまでも発進に向けた準備中であり、現に戦闘を行っているものではないこと、を要件として基準化した。しかし、(1)戦闘行為が行われる場所とは一線を画する場所と法文上の「現に戦闘が行われている現場(ではないところ)」との関係が不明かつ曖昧・漠然(2)一体化の判断は全体として「評価」するのであり、行為そのものが戦闘行為と異質であれば許容されるなら、武力攻撃以外のあらゆる行為は許容される。前回論じたとおり、発艦直前の戦闘機への給油・弾薬提供は、日本がされた場合、個別的自衛権の対象となりうる武力行使的行為である(3)本法案での軍事行動において、政府は、自衛隊が外国軍隊の指揮命令下で行動することは想定していない。想定していないことをやらないというのは基準ではない(4)発艦直前の戦闘機は、発射直前のミサイルと同じで、これへの給油・弾薬提供は武力行使の着手かそれに極めて密接した行為だ。 つまり、安倍首相が答弁した4要件は「一体化」について合憲性の基準になっておらず、その判断結果は合憲性を担保していない。当該基準に依拠して後方支援にゴーサインを出せば、シームレスの(継ぎ目のない)違憲領域に踏み入る危険性を除去できない。安倍首相は、自身が基準であり、「審判は私」とでもいうのだろうが、本来縛られるべき「憲法」というルールを守らなければ、立憲政治というグラウンドからは「退場」である。
第8回 弾薬」はいつの間に「武器」に含まれなくなったのか昔、ドイツ語の試験で「持ち込み可」という条件でドイツ人の友人を持ち込んだという話を聞いて驚愕した覚えがある。ルールには国語的な意味だけでなく、ルールが制定された目的や規範としての限界があるはずだ。しかし、現在、安保法制国会で「言い切れば何でもアリ」状態の答弁が続出している。 後方支援を基礎づける本改正法で、後方支援の内容に「弾薬」の提供が含まれることになった。改正前の周辺事態法では、「武器」は提供できないこととされており、この「武器」には「(弾薬も含む)」と明記されていた。つまり、改正法でも「武器」の提供はできないが、「弾薬」の提供は可能であるというのが政府答弁で、明らかに「武器」の定義が変わっている。そして、この「武器」から解き放たれた「弾薬」には、ドラえもんのポケットよろしく何でも入ることになってしまった。 安倍首相及び中谷防衛大臣は、手りゅう弾、ミサイル、さらには核兵器も「核弾頭がついている」から「弾薬」に含まれると驚愕の答弁をしている。これは法律論であり、弾薬という語感からどこまで入るのかを競うゲームをしているのではない。後方支援で「武器(弾薬も含む)の提供はできない」としていたのは、武器・弾薬を提供することが、憲法9条が禁止している「武力行使」にあたるからだ。国語的な話ではない。日本人が選択した価値・精神の枠組みがNOと言ってきたのである。それを、安倍政権は、口先の言葉遊びにおとしめ、揚げ句は「武器」の提供も「米国のニーズがないから」やらないと答弁した。「ニーズ」があればやるのか。 そもそも改正前に「武器=弾薬」とされていたものが、法文で切り出しただけで、「武器」性を脱ぎ捨て、憲法上の武力行使には触れることのない“清廉”な概念となり得るわけがない。 日本近海という地理的限定も脱ぎ捨て、世界中に展開し、核兵器も運搬できる「自衛隊」は、もはや憲法9条2項の下で許容された「我が国防衛のための最小限度の実力」をも逸脱するのではないか。 しかも首相の国会答弁を聞いていると、政権の判断に極めて重大な影響を与えているのが、「米国のニーズ」だということがわかる。「米国のニーズ」を「主権者国民の総意」よりも優先させ、今年4月にアメリカで本法案の成立を“先約”してきた安倍首相。現行憲法を「押し付け」として、「我が国固有の歴史と伝統」を軸に憲法を改正して「日本を取り戻す」と意気込む首相が最も依存するのが「米国のニーズ」では、なんとも聞いて悲しい。権力に近づくほど、その行動を縛りつけ、規定する磁力を持つのは、「米国」ではなく「憲法」である。
第9回 後方支援の対象国が「違法な武力行使」の可能性レッテル【(オランダ)letter】(1)文字。(2)商品名・発売元・内容などを表示して商品に貼りつける紙の札。商標。(3)ある人物や物事についての断定的な評価。「―を貼る」(4)安保法制のことを「戦争法案」と呼ぶこと。 本安保法制国会(平和安全特別委員会)において、政府の答弁と、法律の規定に齟齬があるのは、存立危機事態防衛の新3要件についてだけでなく、後方支援においてもまたしかりである。 安倍政権は、平和安全特別委員会で、日本が後方支援をする対象たる前線の武力行使が、「国際法上適法なものであることは当然に必要である」との答弁をしているが、本安保法制において、後方支援の支援対象の国際法上の適法性は法文上、後方支援の要件にはなっていない。つまり、後方支援対象である前線が、完全に違法な武力行使をしていたり、後になってさかのぼった際、武力行使の適法性の不存在が発覚したとしても、我が国の後方支援は何らの影響は受けないのである。そのような違法な武力行使は政策判断で後方支援しない、と強弁するのだろうが、武力行使をする国家が「私の国家がする武力行使は違法です」と言いながら武力行使をすることはない。国際法上適法である、正当性があると標榜して、武力行使を開始するのが普通である。 イラク戦争を挙げるまでもなく、正当性を標榜した武力攻撃が違法であった歴史の事例は枚挙にいとまがないほどだ。 安倍首相は、今回の安保法制を「戦争法案」と呼ばれることが心底嫌なようで、これを「レッテル貼り」であると一蹴する。一蹴するのであれば、後方支援対象が「国際法上明らかに適法であること」か、少なくとも「適法と判断することに相当性があること」といった文言を法案に明示的に書き込むべきである。 別稿で論じた後方支援と武力行使の一体化に対する歯止めについても、「戦闘行為が発生しないと見込まれる現場」等、答弁ではよって立つ概念が、法文には一切明記されていない。法文に書かれていなければ歯止めにはならないし、書かれていないけど政府を信じてくれというのであれば、法律は不要、人の支配の始まりである。歴史の唯一の教訓は、「人間は間違い得る」という我ら人間の可謬性ではなかったか。私は法律家として、あくまで法律論及び立法技術論等の観点から、本安保法制の欠陥を解明したいと考えているが、本法案は、明文で「違法な戦争に加担しないこと」が担保されていないのだから、政府は「戦争法案である」との非難に対し、「レッテル貼り」で済ましてはならない。
第10回 「自衛隊リスク上がらぬ」の強弁はマトリックスの世界安保法制が成立することによってリスクは上がるのか? という問いに、政府は「リスクは上がらない」と強弁している。法案の「運用」や、自衛隊の「訓練」でリスクを最小限に抑えるのだそうだ。 しかし、後方支援における“地理的制限”をはずしたことによって、全世界的に自衛隊が展開することになった。これにより、例えば重要影響事態を認定し、遠方での後方支援に向かう海上自衛隊の艦船が攻撃を受けた場合、従来から存在する「武力攻撃事態」を認定し、個別的自衛権で反撃することになる。反撃をすれば再反撃を受ける可能性もある。 この問題性を地図で可視化するならば、今までは武力攻撃事態=戦闘状態になり得る範囲を地図に赤塗りすると、それは「日本周辺」だけであったのが、安保法制によって、これが世界中に広がり、地図が全面的に真っ赤になったのである。これは、「運用」や「訓練」で論じられるリスクの増減ではなく、法律が施行されれば理論的に考えられる法案の「規範レベル」での「リスク」だ。「訓練」で法案のリスクが減るのならば、それは映画「マトリックス」の世界になる。 つまり、発砲された人間がスローで弾丸をよけることができるようになるなら、法案のリスクはゼロになるが、そうでない以上、訓練や運用で「規範レベル」のリスクを減らすことはできない。政府は規範的にリスクが上がることを認め、「リスクをとっても得るべき価値があるのだ」という説明をし、運用と訓練で事実上のリスクは下げる、と説明するのが筋だが、これまたはぐらかすわけである。 さらに、本法制では、後方支援の実施区域で安全な実施が確保できない場合や、実施場所または近傍で戦闘行為が行われているか、それが予測される場合、「防衛大臣が」活動の中止命令・一時休止を命じると規定されている。後方支援中の現場が安全でなくなる状況または戦闘行為が行われる状況で反撃しなければ従事している部隊の存続の危機のはずだが、そこで活動中止ならば、いかにして隊員の安全を確保するのか。後方支援中に「危ないからオレ帰る」ということが許されるのか。それは「世界の平和への貢献」と相いれるのか。前線と「一体化しない」からリスクは増えないという無理やり引いたフィクションがもたらすのは、自衛隊員へのリスク丸投げと「世界平和への貢献」の瓦解である。 我々が負う一番のリスクは、無謬と思い込む政府の判断にフリーハンドに「一任せざるを得ない」という、議会制民主主義国家が内包するリスクかもしれない。今我々に突き付けられているのは、自分たちが今まで実は無意識・無自覚であった「権利」や「勇気」を“不断の努力”で「運用」・「訓練」することだ。それこそが民主主義が内包するリスクの進行へのヘッジになるのであろう。
第11回 子分に責任押し付ける親分の下で国防は機能しない任侠映画で、抗争相手の組長を仕留めると、出頭するのは主人公演じる下っ端で、「組ぐるみでやったんだろぉ!」という刑事の取り調べにも、親分を守るため、かたくなに「俺が一人でやったんです」と繰り返す姿に、観客は胸を熱くする、というのがある。観客は、組ぐるみでやっていることは、もちろん、わかっている。 今回の安保法制において、自衛隊法に95条の2という条文が新設された。「米軍等の武器等防護」という規定だ。これが、集団的自衛権行使の違憲性、後方支援の違憲性と並んで、いや、それ以上に大問題な規定なのである。規定の趣旨から順を追いたい。 既存の自衛隊法95条は、自衛隊自身の武器等防護の規定で、自衛隊の武器等が狙われた時には、自衛官が自分の身を守る、自己保存的な権利の延長線上で自隊の武器等も守ることができる、という規定であった。これが今回、さらに武器等防護の射程を広げ、「米軍等」の「武器等」まで守れることとなった。自衛官自身の身を守る「自然的権利」から、その武器等を守れるというのでも苦しいが、さらに、自衛官自身の自己保存の文脈で「米軍等」の「武器等」を守れることになった。ここで2点確認したい。(1)米軍等の「武器等」には法文で「航空機」や「艦船」が含まれることが明記されており、(2)この武器等を守る主体は「自衛隊」ではなく、「自衛官」と明記されている。すなわち、米軍の戦闘機やイージス艦を「自衛官」個人が守ることになっているのだ。これは、防衛出動している場合以外で、主語を「自衛隊」としてしまうと、組織的な武力行使となり、憲法9条に違反してしまうためにとられている高度(?)な立法技術である。しかし、米軍艦船を守るためのミサイル迎撃もできる(衆院7月8日黒江政府参考人答弁)のならば、実態は明らかな「武力行使」であり憲法9条1項に反する。 実態は、上官の命令で「自衛隊の部隊として」組織的に行う(参院8月21日中谷大臣答弁)行為であり、武力行使だが、法文の主体が「自衛官」であれば9条の禁止する「武力行使」にはあたらず、違憲性を免れるなどということはありえない。いわんや、もし、集団的自衛権行使と同じ状況が、95条の2に基づく武器等防護で行われていたとしても、「自衛官」が行っている限りは、9条に触れないというのは、国民及び国際社会には説明不能であろう。憲法改正を回避したまま本法制を強行しているがゆえの歪みのツケを払わされるのは、法文上、責任主体となった「自衛官」である。任侠映画では、親分も人格者という設定も多いが、本質から逃げた結果、現場に判断と責任を押し付ける親分の下では、国防は機能しないし、観客である我々もこれに気づかなければならない。
第12回 裏口からフルスペックの集団的自衛権の行使が可能不動産屋の広告で、「オートロック完備、女性も安心」といううたい文句をよく見る。実際に行ってみると「非常口」と称する裏口が常に開いていて、「皆さんそこから出入りしていますよ」などとさわやかに言われることがある。 本安保法制における改正自衛隊法95条の2「米軍等の武器等防護」は、「自衛官」が米軍の「武器等」=「航空機」「艦船」を防護できるという規定だ。そもそも「自衛官」個人の責任と権限でそんなことができるのか。それよりも、本規定の「武器使用」は、「我が国の防衛に資する活動に従事」している米軍等への攻撃があれば、新3要件等を飛ばしてフルスペックの集団的自衛権を行使できることになっている。この「使い勝手のよさ」こそが大問題だ。 A国が、日本と合同演習中の米艦にミサイルを発射する準備をしているという場合、存立危機事態の認定なしで、「自衛官」は、米艦という武器を防護すべく「武器等防護」の規定に基づいて、ミサイル基地を攻撃できることになる(黒江政府参考人は、飛んできたミサイルも「武器等防護」で迎撃できると答弁している)。我が国への攻撃がなく他国への攻撃をもってそのミサイルを迎撃できれば、まさにフルスペックの集団的自衛権行使そのものだ。「武器等防護」の名のもとに、政府が限定的集団的自衛権の行使のみならず、フルスペックの集団的自衛権の行使と同じ状況を可能にする改正自衛隊法95条の2の危険性をどれだけの国民が理解しているだろうか。 本規定は、新3要件というオートロックのかかった入り口を経由せずに集団的自衛権を密輸入できる「非常口」だ。非常口からいくらでも人が入ってこられるのに「女性も安心」と言われれば、借り主は怒るし、防犯上大問題である。まして国家最大の暴力である軍事権の話ともなれば、このような「ざる」状態は論外である。 集団的自衛権行使をなし崩し的に認めてしまう改正自衛隊法95条の2の行く末は2つしかない。ひとつは、憲法改正手続きを経て、堂々と集団的自衛権行使を国民に問うてから、95条の2の規定を新設するというプロセスを経るか、もうひとつは、今国会で提出されている本法案から95条の2を削除することである。憲法改正論議をしないのならば、法理論上は95条の2は削除を免れず、したがって、本法案の今国会での可決を断念し、再提出するしかない。安保法制、鍵のかけ直しである。
第13回 この法案はルービックキューブでつじつまが合わない間違いであると思っていたら、実は「あえてそうしていた」ということがある。狡猾でしたたかな話だ。「逆オオカミ少年」とでもいおうか。 自衛隊法で、「武器等(航空機、艦船も含む)防護」の条文における「武器使用」の主語は、「自衛官」であることは、すでに見た。「自衛隊」を主語にしてしまうと、組織的な武力行使となり憲法9条1項に違反してしまうから、そうしているのだろう。 さらに本改正自衛隊法案では、122条の2という条文が新設された。これは、従前、雑駁にいえば上官の命令に違反した場合や、また、これらを共謀したり、唆したり、扇動した者に、それぞれ3年以下の懲役が科される、という罰則を日本国外で犯した者にも適用するものだ。これにより、自衛官は憲法違反の海外派兵をされても命令にも違反できず、罰則を科せられてしまうという強固な管理体制が構築されたわけである。ところが、不思議なことに「武器の不正使用」の条文には、この国外犯処罰規定がない。「武器の不正使用」とは正当防衛など、武器を使用することが許容されていないのに、武器を使用することである。自衛隊の海外活動では危険が伴う。武器使用を前提とするのであれば、あって当然の規定がないのは一見、法の欠陥に見える。 しかし、これぞ逆オオカミ少年で、あえて意図的に規定しなかったのではないか。そんな疑念を持っている。 自衛官による武器使用は、実態は上官の命令で部隊として行われる(8月21日中谷答弁)。しかし、テロとの戦いの場合、正当防衛か否か、民間人か否かを確認できないまま撃たざるを得ない武器の不正使用も想定される。命令によってした武器使用が不当であった場合、国外犯処罰規定で処罰されると考えるのが普通だ。それがないのはこのとき、武器使用の命令に基づいて行動した当該自衛官を未確認を理由に武器不正使用で罰していたら、武器使用の目的を達成できないという判断が働いたのだろう。米軍等の武器等防護の主語を自衛官にして、自衛官個人の責任で武器使用をするという建て付けはかくも矛盾をはらむ。そうした矛盾をガス抜きする立法技術として、海外における自衛官の武器の“不正使用の罰則”をあえて置かなかったのだとすると、本当に武器を不正に使用したものが野放しになってしまう。憲法改正を経ずに無理やり立法しているため、終わりのないルービックキューブのように、どこかをいじればどこかに不備が生じてしまう。この法案は決してつじつまが合うことがない。
第14回 参院で審議が止まった防衛相の虚偽答弁自衛隊を出動させる場合、防衛大臣には「安全確保配慮義務」がある。例えば、自衛隊員が整備中の事故で亡くなったような場合、防衛大臣は安全配慮義務違反を負う可能性がある。 防衛大臣が安全配慮義務を負うのは平時(非戦闘状態)のときのみで、有事(戦闘状態)のときは安全配慮義務を負わない。有事の際に、安全配慮義務を考えていたら戦闘行為などできなくなってしまうからだ。 これを受けて、平時行動を予定している国際平和支援法等には、防衛大臣の安全配慮義務が明記されている。ところが、重要影響事態法にはこれがない。「現に戦闘が行われていない現場」での後方支援行動は「平時」の建て付けになっているのだが、実は「有事」と同等の行動を予定しているので、安全配慮義務を明記できなかったのではないか。こんな疑念が浮かんでくる。 政府は、安全かつ円滑に活動できる「実施区域」を指定することによて安全を図ると言っている。しかし、これは、法的に言うと、自衛隊の活動実施区域が安全か否かの判断にしか安全配慮が及ばず、隊の一般的行動(装備・編成等)をカバーするものではない。さらに大問題なのが、本法制で、存立危機事態(=有事)において後方支援をする場合があるとされている米軍等行動関連措置法だ。もちろん有事だから、安全配慮義務規定などあろうはずがない。 しかし、安倍首相は、この場合も含めたすべての場合に安全配慮義務を貫徹したと言い、中谷防衛大臣も、有事における後方支援でも安全配慮義務を負うと答弁している(8月4日答弁)。これは明らかな虚偽答弁である。25日、民主党・福山議員の質問で審議が止まったのもこれが理由で、この点につき虚偽答弁を認めない限り、先に進めない。 政府は、虚偽答弁を認めるか、答弁通りの規定にするためにやり直すしかない。自らが提出する法案の中身も正しく理解していない権力担当者が、その法の運用だけは正しくできるなどと強弁しても誰が信じるのか。嘘を認める勇気は人間の尊厳のはずだ。政府には退く勇気を持ってもらいたい。
第15回 かくも不条理が露呈した「安保法案」のほころび参議院の議論も1カ月が経ち、衆議院を通じて不誠実・不十分・不合理な答弁はかなり集積してきた。しかし、ただただ不合理として一蹴してもいられない。すなわち、答弁は政府見解であるわけだから、その通りの運用をすることになる“はず”である。すると、日本国の防衛上、自衛隊の身分上、かなりの危機を生じるのである。 以前に紹介した、後方支援の一体化について、A国戦闘機が我が国に対する武力行使をしていて、A国の発艦準備中の戦闘機に給油・弾薬の提供をしているB国は個別的自衛権の対象となるのか。これは、逆にして考えた場合、B国の行為は日本が重要影響事態法で新たに規定し、行おうとしている「後方支援」そのものである。B国の行為(兵站)はそれを断たねば我が国は攻撃され続けるわけだから、我が国にしてみれば、防衛上、当然、個別的自衛権の対象となるはずだ。即ち、我が国が「後方支援」としているものは敵国にとって武力行使そのものということになる。この質問に対して、あろうことか、中谷大臣は、「B国は後方支援だから攻撃しない」と答弁したのである。つまり、我が国が「後方支援」=「一体化していない」としたいがために、我が国防衛を犠牲にしたわけである。実際に上記状況が発生した場合、我が国はB国を攻撃できず、A国から攻撃され続けることになる。また、岸田外相は、自衛官にはジュネーブ条約の適用はないと答弁し(7月1日)、自衛隊員は捕虜にならないことにしている。日本は「交戦権」も「軍隊」もないままに本法制を押し通した結果、かくも不条理が露呈したわけである。 前回も書いたが、国家の命令で武器使用した自衛官は、帰国すれば自衛官個人として裁かれる。政府は集団的自衛権を容認したいばかりに既存の個別的自衛権の枠組みを矮小化している(8月4日答弁等)。 虚偽答弁や答弁拒否の問題点を理解することは重要だが、一歩進んで、政府答弁を現実に「あてはめ」た結果、現実においてどのような問題が生じるのかを冷静に見てもらいたい。私は安全保障を真に重要と考えるが、同じように考えている人々も、この法案における「必要性」や「抑止力」「安全保障環境の変化」などという言葉の前に思考停止していないか。安全保障を真剣に考えている人こそ、この法案を再読しようではないか
第16回 昨年7月の閣議決定は明確な「自衛隊法違反」だ 今回の安保法制のエンジンとなって法制を走らせているのは、いわゆる「限定的集団的自衛権の行使」を認めた昨年7月1日の閣議決定である。従来の憲法9条解釈の心臓であった47年政府見解は、集団的自衛権を否定しているが、その「基本的論理」は変更せずに、「安全保障環境の変化」を理由に、集団的自衛権の限定的行使が許されるという強弁は、あらゆる観点から完全にアウトのむちゃくちゃな論理である。 47年見解は、個別的自衛権を前提として、我が国が必要最小限度の自衛の措置をとりうるのは「外国からの武力攻撃」に対してであり、「そうだとすれば」集団的自衛権は認められない、としている。政府はこの「外国からの武力攻撃」に「我が国に対する」と書いていない点に狙いをつけた。つまり、47年見解で自衛権発動条件として予定していたのは「外国からの武力」だけであって、「我が国に対する」とは書いていないから、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する」武力攻撃も「含んでいた」と読み替え、限定的集団的自衛権を無理やり生み出した。国会では、当時の内閣法制局長官を含め47年見解作成当事者たちが「我が国に対する」外国の武力攻撃を認識して起案したという点につき議論がされているが、「認識」論以前に、自衛権発動が「我が国に対する」攻撃を前提としていたことを圧倒的明示的に立証するものがある。自衛隊法(昭和29年成立)だ。我が国の防衛法制の法体系を支える自衛隊法76条1項(防衛出動)の要件たる「武力攻撃」が「我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という)」と定義されているのだ。 一般名詞たる「武力攻撃」をわざわざ「我が国に対する」武力攻撃と定義するのは、立法論・法律論としてもかなり奇妙かつクドいが、自衛権発動要件たる外国からの武力攻撃を「我が国に対する」ものという装置を法律に埋め込まなければ自衛隊法は憲法9条違反になるからだ。9条にとって自衛隊法がジャストサイズ合憲となるための立法技術である。法の効力論からいっても、憲法を頂点に頂く日本法体系のピラミッドから言えば、憲法→法律→政府見解であって、憲法に反する法律はもちろん、法律に反する政府見解は違法無効だ。 つまり、47年見解は当然に自衛隊法の枠内にあり、「我が国に対する」武力攻撃を前提としているのはまさに論じるまでもない。すると、「我が国と密接な関係にある他国」への武力攻撃も自衛権行使要件とした昨年の閣議決定は、自衛隊法違反の違法無効な閣議決定である。この国の「法の支配」は瀕死状態である。
第17回 安倍首相は過去の自分の質問を忘れたのか?「101回目のプロポーズ」というドラマがあったが、あれは最後にプロポーズが成功する。しかし、何回アタックしてもダメなものはダメな場合もある。 我が国の法体系上、自衛権行使の前提たる「外国の武力攻撃」とは、「我が国に対する」ものであることを自明の前提としていることは前稿で書いた。このことは、過去の国会審議での起案当事者を含めた歴代法制局長官の答弁等でも明らかである。 まず、47年見解起案に携わった吉國、角田両元内閣法制局長官が「日本への侵略行為が発生して、そこで初めて自衛の措置が発動する」(昭和47年9月14日吉國)、「我が国に対する武力攻撃がなければ、我が国の自衛権の発動はない」(昭和56年6月3日角田)と答弁している。その後、政府は、スポーツの祭典よろしく数年ごとに「限定的」なものも含めた集団的自衛権の行使可能性を問い続けてきたが、ことごとく否定されてきた歴史がある。 小泉総理時代には「個別的自衛権に接着している…集団的自衛権」(つまり現政府の“限定的”集団的自衛権より狭い)も「許されない」(平成16年5月28日)という政府見解を出しているし、安倍総理自身、首相就任前にこんな質問をして、退けられている。つまり、自衛のための武力行使の「必要最小限度」は「数量的概念」(伸び縮みする)という前提のもと、「必要最小限度…の範囲の中に入る集団的自衛権」は「絶対にだめだ」というわけではないのではないか、という問いである。当時の秋山内閣法制局長官は、集団的自衛権は「必要最小限度」を超える(旧第3要件)から行使不可能なのではなく、「自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます」と答弁し(平成16年1月26日)、我が国への攻撃がないのに我が国が自衛権を行使することは、必要最小限度かという問題に立ち入る以前に違憲だと明言した。安倍総理はこのやりとりを忘れてしまったのだろうか 政権交代があっても維持されてきた47年政府見解は、「我が国に対する」武力攻撃なく自衛権発動を認める“集団的自衛権”を禁止しているのであり、集団的自衛権がいかに「限定的」なものであっても許されないという法制局の判断は今や、憲法解釈規範を構成している。 集団的自衛権行使は可能か、という「アタック」が成功しないのは、憲法9条の壁があるからであり、解釈改憲でその「壁」を迂回すれば、もはや踏みとどまるべき線はなくなってしまう。
第18回横畠法制局長官のリーガルマインドは痛まないのか今日は数学の授業だ。方程式について学ぼう。中学生にもわかる。 いわゆる我が国の個別的自衛権発動要件を定めた(昭和)47年見解における旧3要件は、(1)あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、(2)国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、(3)その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである、としている。 これに対し、新3要件は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が覆される明白な危険があること」を(1)とした((2)(3)要件は旧3要件と同じ)。 政府(及び横畠内閣法制局長官)は、旧3要件と新3要件の「基本的論理」に変更はなく、安全保障環境の変化という事実認識に変化があったことから、「あてはめ」を変えただけだと繰り返す。法律家はある事案等の結論を導くときに、それを判断する「規範(基本的論理)」を定立し、そこに事実をあてはめて結論を出す。つまり、「規範(基本的論理)」とは、数学でいう「方程式」で、事実は「関数」だ。方程式が同じなら、同じ関数を何度入れても同じ答えが出る“はず”である。 では、旧3要件の(1)と新3要件の(1)という方程式にホルムズ海峡での機雷敷設という関数を代入してみよう。旧(1)では、外国の武力攻撃すなわち国民の権利が根底から覆されることなので、遠くホルムズ海峡に機雷敷設されただけではどうやっても(1)を満たさないが、新(1)では満たす可能性がある(政府複数答弁)。2つの方程式に同じ事実を代入して、違う結論が出ているということは、方程式=基本的論理が違うのである。 さらに言えば、横畠長官は47年見解の旧3要件を含んだ基本的論理について「憲法改正をしなければ変えることのできない、まさにそういうものである」と答弁している(平成27年6月15日)。 今見たように、基本的論理は変更しているのだから、言葉通り、憲法改正を経なければならないはずだが、もちろんその姿勢はなく、「変更はない」と嘘をつく。横畠長官はもともと検察官であり、法律学小辞典の編集代表にもなっている生粋の法律家である。己のリーガルマインドは痛まないのか。内閣法制局から「法の番人」の看板を剥ぎ、脳死状態におとしめた安倍内閣の罪は重い。
第19回法文と現実の矛盾、乖離はまるで答えのない謎かけだプッチーニのオペラ「トゥーランドット」で、姫は求婚者に解けない謎かけをする。「氷のように冷たいが、周囲を焼き焦がすものは?」 解けなければ、求婚者の命はない。今回の法案や国会審議を見ていると、このオペラを思い出してしまう。 事態対処法3条4項には、「存立危機事態においては、存立危機武力攻撃を排除しつつ、その速やかな終結を図らなければならない」と規定されている。「終結」を図るための武力行使はもちろん、「必要最小限度」だ。政府の答弁をつなぎ合わせると、他国の領土領空領海には入れず、敵基地は個別的自衛権でさえ攻撃はしないとしている。 安倍首相の答弁によると、日本を守る米艦への攻撃という「明白な危険」で存立危機事態は認定(7月15日)されるが、法律上、存立危機事態を「終結」させる「義務」がある中、存立危機事態の原因たる敵基地を攻撃せずに、他国の領土領空領海に入らずに、どうやって存立危機事態を終結させるのか。トゥーランドットの謎かけレベルに回答不能だ。 本論稿でも繰り返し危険性を指摘してきた自衛隊法95条の2、「自衛官」による「米軍等の武器等防護」についても、去る8月21日の委員会での中谷大臣の答弁は謎かけだった。95条の2は「平時の規定」(このような明文はない)で、有事では使えないから、「米国等の船舶等がミサイル等でやられた場合、それが戦闘行為でないと判断した場合は防護ができる」という驚愕の答弁をしている。戦闘行為ではないミサイルなどありえるのか。 また、戦闘行為か否かの分水嶺は組織的な武力攻撃か否かだという。「国または国に準じる組織」による攻撃でなければ武力行使にならず、従って、その場合に限って、95条の2で反撃できるというのだが、テロとの戦いの場合、どうやって即座に判断するのか。まったく現実味がない。 冒頭の謎かけの答えは「トゥーランドット姫!」であり、オペラでは見事正解した求婚者のカラフは逆にトゥーランドットに謎かけをして、有名なアリア「誰も寝てはならぬ」を歌い、夜が明けて2人は結ばれる。法文と現実の矛盾・乖離、実現不可能な答弁という「謎かけ」に答えなどなく、現政府・本法制では、この国に夜明けは来ない。
第20回政治家の良心とは何か、矜持はないのか、胸は痛まないのか冷戦期、ソ連が芸術的優位性誇示のため威信をかけて開催した第1回チャイコフスキー国際ピアノコンクール。もちろんソ連政府はソ連人の優勝を予定していた。しかし、審査員だったスビャトスラフ・リヒテルは、西側からきたアメリカ人ピアニスト、クライバーンに満点を、他の者すべてに0点の点数をつけ、クライバーンが優勝した。リヒテルは政治には屈しなかった、それは、彼が“芸術家”だったからだ。 前稿まで見てきたとおり、集団的自衛権、後方支援、自衛官の武器使用を中心として、10本を1本にしたこの法案には不可分・不可避的に“違憲性”や“法の欠缺”という爆弾がちりばめられている。 本法案は、今後、自衛隊員等が訴訟提起をして、違憲判決が下された場合、アメリカとの約束は結果的に果たせなくなるというリスクを抱え続ける。真に日米同盟を大切であると考えるならば、このような爆弾を抱えた法案を成立させることで、「約束に応えた」とするのは、パートナーシップとしてあまりに不誠実ではないか。「希望の同盟」を支える法案やそのために出動する自衛隊の基盤が、ここまで不透明かつ薄弱で本当にいいのか。与党議員の胸は痛まないのか。 政治家の良心とは何か、「最終的な憲法解釈権者は最高裁」といって合憲性判断を放棄する姿勢に、「国権の最高機関」の構成員の矜持はあるのか。「立法府」がリーガルマインドを脱ぎ捨てることに胸は痛まないのか。 与党議員は、本当に皆真摯にこの法案を読んだか。国家が主権を維持し、我々国民を守るということは党派的イデオロギーや専門分野は関係ないはずだ。安全保障環境の変化等の「必要性」以上にこの法案の合憲性や法理的妥当性・整合性を国民一人一人に説明できるくらい法案を読んだのか、胸に手を当てて考えたときに、その胸は痛まないか。 クライバーンを優勝させたリヒテルは、音楽以外の何物にも仕えてはいなかった。だからこそ、政治的圧力には屈せず、彼の音楽的良心のみに基づいて、優勝者を選んだ。政治家や公権力担当者が仕えるのは、我々国民であり、権力の源泉たる憲法である。政権与党の自民党議員も、本来多様であるはずで、「大きな流れ」にあらがうことなく、“政治家”として真に尊重し死守すべき価値から目を背けていないか。わずかに湧き出る泉も下流ではもうあらがえない濁流となる。私は日本の政治、そして日本の政治家を信じている。“正義”や“立憲主義”への奉仕者として、この濁流に逆らう勇気を持たれんことを。私は信じている。(おわり)

2015-09-23 02:26