"フビライ・ハーンは遊牧騎馬民族のモンゴルが手中に収めていた陸の道を海の道に繋いで、広大な帝国全土に陸海の交通網を張り巡らせ、経済活動を活発にするという壮大な構想を抱いていました。モンゴル時代の史実を記した明代の歴史書『元史』には、国が交易のために船と資本を商人に貸し与えたとあります。これは、南宗までの歴代の中国王朝には無かった、まったく新しい発想でした、
フビライ・ハーンは遊牧と農耕と航海という、人類の活動の三つの大きな流れを総合しようとしましたが、これを象徴するのが大都の建設です。大都は、海まで150キロメートル近くもある内陸に建設された都市でありながら、市街の真ん中に港を持っていました。人工的に造られた運河と自然の川を組み合わせて水運を可能にしたのです。運河の開通によって、遠くアフリカ、中近東、インドなどから多くの物資が大都に運ばれました。
こうして内陸の遊牧民族モンゴルの皇帝フビライ・ハーンが、古代文明の中心のひとつであるアジアの中国を水路によって他の大陸と結ぶ道を開き、後にモンゴル遊牧民の子ボローが、ピョートル大帝の治世に勢力を強めたヨーロッパの大国ロシアの首都を内陸および外部世界と水で結ぶ道を開いたということは、たいへん興味深い史実ではないでしょうか。
モンゴル帝国は海軍を強化し、1292年から1293年には太平洋諸国、ジャワ・スマトラにまで到達しました。同時に海上交通・貿易を促進し、東アジアとインド洋の東半分、スリランカに至るまでの広大な地域の国々と友好関係を結びました。モンゴル帝国の庇護の下にアジアの大陸と海を含む巨大なシステム化された交易圏が作られたのです、
歴史家によれば、モンゴルはフビライ・ハーンの治世の後半から、はっきりと「海上帝国」の性格を持ちます。この大帝国の二段階にわたる成長は世界史上の驚異であり、今もその意義は色褪せていません。"