"戦後生まれの人間が過去の戦争について謝罪し反省するのはおかしいのではないかとする意見
安倍総理の戦後70年談話でも「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との一節がある。
たとえば「おじいちゃんが交通事故を起こして他人を傷つけた」という場合、
やはり家族だし、ふだんのおじいちゃんの様子について責任もあったかなと思うだろう
たとえば「となりのおじいちゃんが交通事故を起こして他人を傷つけた」という場合、
責任はあまりないと思うけれども、高齢者の運転問題とか、もっと一般的に交通安全についてとか
考えることはたくさんある。
責任という言葉の意味による。
刑法に近いものを考えるか、倫理に近いものを考えるか。
見たことも聞いたこともない血縁でもないご近所でもない、何世代か前のおじいちゃんが戦争に行かされて何かをしたという場合に、責任があるのか謝罪の必要はあるのか。
見たことも聞いたこともない血縁でもないご近所でもない、何世代か前のおじいちゃんが戦争に際して重要な決定をして、戦争開始、国民を動員、戦闘命令を出し、捕虜を苦しめ、女性を苦しめ、沖縄本土決戦では市民を巻き込み、という場合、そのいろいろ大事なことを決定したおじいちゃんについて、現代に生きる個々人は責任があるのか、謝罪の必要があるのか。
「日本人だから」という思考をする人には、日本人という共有アイデンティティがあるので、いつまでたっても、日本人である限り、責任もあり、謝罪の必要もあるかもしれない。
また人類という共通項で考えれば、そこでも当然、責任もあるだろう。
他人事だし責任がないとか考えなくていいと言うことでは決してないだろうというのが
ひとつの考え方だ。
時代が違い、立場が違えば、自分もまた同じ間違いをするだろうと緊張して考えることがなければ、歴史を見つめているとはいえない。
ナチス、アウシュビッツの話から、いろいろな戦争の話、社会的心理操作の話、抑圧される女性や障害者の話、公害の犠牲者、その他いろいろ、他人がしたことかもしれないが、自分の問題として考えることは大切であると思われる。
そのように真剣に考えたとき、被害者に謝罪の気持ちが生じたり、加害者に問責の気持ちが生じるのは当然のことなのではないだろうか。"