"1972年は日本が高度経済成長の真っただ中にいた。田中角栄内閣が誕生し「列島改造ブーム」が巻き起こっていた。一方の米国はベトナム戦争の泥沼から抜け出るため、電撃的なニクソン訪中を行い、それが世界中に衝撃を与えた。特に日本にとっては「寝耳に水」の大衝撃だった。「親台湾で反中国」と思っていた米国が日本の頭越しに共産中国と手を結んだのである。しかも周恩来とキッシンジャーとの間で日米安保体制は日本を自立させない「ビンのフタ」である事を確認し合った。日本を永久に米国の従属国にしておくことが米中双方にとっての利益と考えられたのである。
その前年の8月15日にはニクソン政権が「金とドルとの交換停止」を発表、1ドル360円の固定相場制に終止符が打たれた。それが終戦記念日に発表された意味は米国の日本経済に対する宣戦布告と見るのが経済界の常識である。
この2つの政策転換を「ニクソン・ショック」と呼ぶが、それは米国が日本を「反共の防波堤」として経済発展させた時代の終わりを意味していた。第二次大戦に敗北したドイツと日本は二度と軍事国家にならないよう武装解除され、
米国は冷戦の始まりと共に欧州では西ドイツ、アジアでは日本を「反共の防波堤」として経済発展させる事に力を入れた。ところが朝鮮戦争の勃発で米国の方針は一転する。西ドイツと日本に再軍備を要求した。特に日本には朝鮮戦争に出兵する30万人の軍隊が求められた。西ドイツは要求を受け入れて徴兵制を敷くが、日本は吉田茂が憲法9条を盾に再軍備を拒否、代わりに軍需産業を復活させて米軍に武器弾薬を提供する事にする。それが高度経済成長の出発点となった。米国は自らが作った憲法9条によって日本を思い通りに動かせなくなる。苦々しい思いの米国は憲法改正を要求するようになるが、しかし吉田は社会党に護憲運動を要請し、憲法改正させないための議席を与え、自衛隊の創設は認めたものの専守防衛の武力行使しかできない組織にする。
1960年に日米安保条約を改定した岸信介は基地の提供の見返りに米軍に日本防衛の義務を負わせるが、米国の戦争に巻き込まれないよう集団的自衛権の行使を認めてはいない。吉田はそのことを確認した後に岸の安保改定に賛成した。つまり吉田も岸も米国が日本の自衛隊を米軍の肩代わりに使いたい事を知っているが故に、集団的自衛権行使を認めない解釈を行いそれが歯止めになった。その結果、朝鮮戦争に次ぐベトナム戦争でも日本の自衛隊は参戦せず、一方で日本経済は戦争特需により拡大を続けた。「72年に自衛隊が海外に出ていく状況ではなかった」と礒崎氏は言うが、それは先人が憲法解釈によって米国の要求を退けた結果である。それが敗戦国の日本をよみがえらせ、軍事で勝った米国が経済で日本に敗れる事になる。そのため80年代の日米関係はし烈な経済戦争の時代となった。米国民はソ連の軍事力よりも日本の経済力に脅威を感じ、政治家たちは日本が米国と肩を並べる大国に上り詰めると予想した。「安保タダ乗り」の日本を批判しながらしかし日本に一目置いた。
ソ連が崩壊するといよいよ日本は米国にとって最大の敵となる。米国議会は日本の仕組みを徹底分析して弱点を一つずつ攻め落とす方法を考える。もはや冷戦時代のように米国が日本を保護する必要はない。工業製品で世界を制覇した日本に対し、米国は情報と金融に特化して圧倒的な差をつけ、また最大の市場を持つ中国と手を組んで中国を世界の工場にすることで日本を牽制する。平和憲法の制約もあり、軍事的に米国に依存するしかない日本に、周辺の脅威を煽れば米国製の兵器を買わせる事が容易である。米国製の兵器を買えば日本が米軍の指揮下に入らざるを得ない状況も生まれる。つまり平和憲法は米国の利益になる。世界に脅威があると言えば日本は米軍に頼らざるを得ず、
米軍基地を永久に提供し続ける事にもなる。憲法の改正は下手をすると日本が自立する契機になり、米国の利益につながらない可能性もあるが、憲法改正ではなく、解釈によって集団的自衛権の行使を認めさせれば、米国に従属する中で米軍の肩代わりを自衛隊にさせることが出来る。これこそが米国にとって一挙両得になると米国は考えている。"