相対座標

相対座標
2020-7-3
ときに話題になることであるが、
強迫性障害やうつ状態では、自分が異常であり、健常な状態はどのようなものであるか認識していて、
それゆえ、疎外感に苦しむ面がある
しかし、妄想を抱く人や性格障害の人たちは、自分が大半の人達とは違っているということを理解すれば、
治療が一歩前進する面がある
自分だけ異常なのは理解しているが、しかし、それでも妄想は捨てられない
この状態を二重見当識と表現したりする
https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1090010003.pdf
例えば、慢性期になった統合失調症の人が、入院病棟で、
「私は実は国連事務総長である」と真実信じ、公言しているのだが、
彼の日々の日課は、病棟の廊下のモップがけである。
その矛盾に苦しむことがない。
客観的世界を絶対座標であり、自分は必ずしも中心にいるわけではないとすれば
主観的世界は相対座標であり、自分は常に中心にいる
世界認識の成熟とは主観的・相対座標だけだった人が、客観的・絶対座標との二重見当識を獲得し、
場面によって上手に使い分けることだと思う
自分なんて大して価値ないですよと謙遜している人は
そのように謙遜できるくらい自分は成熟しているのだと認識している点である程度相対座標的である
それでいいのである
その程度の相対座標がいいのだという絶対座標を獲得している
どの場合に絶対座標で考えるべきか、どの場合に相対座標であるべきか、世間で共有されている絶対座標を持つ人が成熟した人である
メタ絶対座標とも言うべきもの
それにしても、絶対座標と相対座標のズレがどの程度あるのかを認識すれば
随分便利になるだろうと思うが認識できない人達がいる
どこに故障があるかといえば、自分の相対座標で行動し思考したときに不都合があったときに
これでは損をしてしまう、訂正しよう、と思い、相対座標を微調整する、それができないと考えられている
言い換えると、絶対と相対のズレを「認識」することと「訂正」することのふたつがあり、
認識できない病気と訂正できない病気がある
例えて言えば、
何かをスケッチしたときに、自分は随分と下手くそだなと思う、それが「認識」。
その認識があれば、原則的には、次は線の位置を変更できるはずなのである。
適正な線の内側と外側を描き、それらは下手だと認識すれば、その中間程度の線を描く、
そのようにして、上手なスケッチに到達できるはずなのである。
しかしなぜか絵はうまくならない。それが「訂正」機能の障害である。
大抵の人は、自分の絵が下手だと認識はするが、訂正ができない。
認識できていれば、訂正できるはずだとの単純な考えが間違いだとわかる。
そして大半の人は、スケッチにおける訂正機能障害だとわかる。
絵を描くということにも現れているのだから、
人間の脳の特性として、このような症状はいろいろな面で観察されるだろう。
ズレたままで自分を肯定し主観座標を守るためには、絶対座標を非難して否定するのが主要な方法となる。
自分のスケッチは上手いのだ、これまでの画家はみんな下手だと主張するようなものだ。
この場合は、訂正機能の障害があるために、認識機能の障害が二次的に発生していると考えられる。
つまりこの場合、訂正機能の障害は一次性で脳の機能障害であり、認識機能の障害はそれをつくろうための神経症的な防衛メカニズムの発動である。