精神の現象学

「精神の現象学」というようなタイトルの古い本が図書館にはあります。
自宅にもあります。ヘーゲル。
本書は、観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。カントの認識と物自体との不一致という思想を超克し、ドイツ観念論の先行者であるフィヒテシェリングも批判した上で、ヘーゲル独自の理論を打ち立てた初めての著書である。難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。
というようなやつ。
観念論とか弁証法とか言っているようではまあ、その程度の歴史的段階というか、発展途上というか、難解なだけで、なんの成果ももたらさず、仲間内が教職に就くのを支援する程度のものだろう。
しかしまあ、ドイツ精神医学では、精神医学の記述として、現象学的記述というものが大切とされてきた歴史があるわけです。これは案外大事。
わたしは素朴実在論的に考えますが、カントの言うように、物自体がまずあるらしい、というか、あるに決まっている。そして、それに反応して、主体の側には「現象 Phenomenon」が生じる。主観的体験と言ってもだいたい同じだけど、体験という言葉は、幅広い意味がある。体験と認識との間を区別することもできない様子ではある。感覚、意識、理性、認識、など時間の無駄だ。言葉なんてそんなものだ。
また客観的体験というものも言葉の矛盾を含むようでもあるが(これが観念論の立場)しかし現実には、客観的現実という言葉をよく使うし、そのような概念をもとにして我々は生きて、刑罰を与えたり給料を与えたりしている。主観的体験に対して、報酬や罰を与えているわけではない。
しかし客観的体験というものが成立するのかについては疑問がある。
4丁目の角に信号機がある。それは三色だ。といえば客観的現実のようであるが、
極端に言えば、目をつむっている間は存在しないかもしれないし、4丁目角にいないなら、信号機の存在について何も言えないだろう。また、たしかに存在するというものがどの他人にとっても存在しないときには一応、感覚要素については幻覚とか、解釈の次元については妄想とか言ったりするのだが、それも多数決でしかない。
素晴らしい視力を持った人にしか見えないものもあるだろうし、高齢者になれば視力も聴力も衰えるのは周知である。
すると、物自体があるかどうかも怪しいのだけれども、それを怪しんでいるよりも、あるものとして、仕事をしたり、愛好したりすれば、人間に利得があることはみんな認めるところだ。
現象学といえばフッサールで、その本「現象学」の中では、志向性,エポケー,ノエマ=ノエシス,生活世界,間主観性などの用語が使われ、現象学的直感とか現象学的還元とか、つまり、うまく説明できないけど、そういうことにするしかないという悲鳴が書き記されている。つまり、失敗なのである。
それはそうとして、
物自体→現象→客観→間主観性→主観
とか、色々あるわけだ。
要するに、なにか見えていても、その見えたままの物がそこに存在すると確信して言い訳はないよ。
でも、なぜだか、その確信を信じて、それを前提として活動して、不都合はないよ。
それは人間は、かなりの程度で、客観性を共有しているからだ。
そしてまた、かなりの程度で、主観性も共有しているのだ。
客観的にといえば第三者多数的なことで、主観的といえば、個人的非共有的なことだと思うのも間違いだろう。
人間の脳は違いも結構あるが、共通なことも結構ある。
また教育や習慣によって、後天的に刷り込まれた共通事項もある。
だから大半は共通なのであって、
よく「個性的感性が多くの人の共感を呼んだベストセラー」とかの言い方はアホなのである。
ベストセラーというものは最大公約数に過ぎないし、それ以前に、ある出版社的な宣伝の結果に過ぎない。
素朴実在論的にニュートン力学を正しいと信じているとして、
宇宙の大きさや量子論の微細さは別枠に置くとして、
別にそれでなんの支障もないがな。
科学の大半は素朴実在論の上に成立しているのであって、科学の流星はつまり、素朴実在論の勝利と、私は思う。
物自体→現象→体験
と考えるとすれば、
物自体を考えるのは科学だ
体験を考えるのは心理学だ
現象学を考えるのは現象学だ
数学というのは主に心理学の一部だけれども、
数論とか方程式とか今では中学生も理解するし
根本的矛盾より崩壊したラッセル・ホワイトヘッドの集合論も無無限とか言い出すと
いろいろ矛盾もあるのだろうが、
日常生活の範囲では、常識の自然な拡張である。
そうした、人間の頭の中からできた数学が、物理学の基礎を作り上げ、物理学は自然を予言する。
なぜ人間の頭の中と自然が一致するのか、大問題ではないか、不可思議ではないかと
昔の哲学者は叫んだわけだ。
しかし、なんのことはない、人間の脳にはある程度のゆるさがあり、学習をすることができる。
学習は進化によって次世代に渡される。こう言うと後天的形質の遺伝のように聞こえるかな。
そうではなくて、生存に有利な遺伝子が残るということで、
脳が、自然をよく写し取って、正確な予言をする、そのような脳が生き残る。
例えば、石を投げて、獲物に当てるとする。何度か繰り返しているうちに
放物線の感覚が染み込んでくる、初速と軌跡の関係が染み込んでくる、そして
風圧などの要素も染み込んでくる、それらを総合して、
最も精密にシミュレーションができたものが獲物をとって
子孫を残す
だから、自然の法則と、脳の内部の法則が、近い人が有利。
それが長い年月が経てば一致してもおかしくない。
カントの問。なぜ数学は自然を予言するのか。
ローレンツ(動物学のコンラート・ローレンツ)の答えは、そのような脳がセレクトされて残り、広がったから。
そのようなことを基礎として、例えば、何かを見たときに人間とものとの間に現象が起こる。
何が起こったのかを分析するのが現象学と私は思っている。
患者の全く個人的で理解不能なことばを書き留めることは、
現象学的記述である。
DSMチェックリストとは全く違う。3個までなら病気区でなくて、4個なら病気だとか、アホか。
その場合に、
エディプス的葛藤という概念を前提にして書けば、現象学的ではない。
書く主体の頭の中が反映されてしまっている。30年も経てば役に立たないものになる。
愛着障害という概念に支配されて患者の言葉を書いていると、それが刻印される。
それも30年経てば、その頃はやってすぐ廃れたあれね、というだけである。
精神分析とか認知行動療法とかやがて懐かしいものになるだろう。
 
つまり、その時時での当然の前提というものは疑ってかからなければならない。慎重に。たとえば、カトリック全盛の頃。例えば、日本に大陸仏教が伝来した頃。鎌倉仏教が栄えた頃。平田篤胤が神道をひねり回して本心ではもうどうでもいいと思っていたのに大衆には案外うけた頃。中国なら陰陽とか五行とか
そうした、完全には意識化できない前提に縛られるわけですよ、人間は。
学問のある人ほど。
先日、何かの物語の解釈で認知行動療法の枠組みで解説していた女子大の英文科教授女子がいて、人間はこういうものだなあと納得したものであった。認知行動療法の考え方は、物語解釈の方法論とはなりえないものです。フロイトでもないしラカンでもないんだから。アドラーはなんだかおかしなふうに道しるべになっていますがね。あんなに程度の低い心理学的訓話をしているのではないのであって、本人はがっかりだろう。
現象学は、モノそのものが人間の心に引き起こしたことを、客観的に記述するものであるが、
精神分析も認知行動療法も、愛着理論も、解釈者の枠組みがあり、それに当てはめている。
愛着理論に当てはまらないものは何かと言っても、そんな物はあるはずがない。すべての人間は
愛着を求め、あるいは与えられ、あるいは与えられず、そのようにして生育してきた。
エディプスの話も、誰にでも当てはまる。
カール・ポパーが言うように、反証可能性を提示できないなら、科学的命題ではないのだ。
カトリック的公理である。
偽科学的命題の変遷は、実は反復でしかないのであるが、その元であるカトリック的公理が大成功したものであるから、その後の曖昧科学はみんなその形を目指す。
現象学は心理学に、ひいては大脳科学に還元されるのか。そんなことはない。脳の中ではドパミンとかセロトニンその他が様々に変化している。現象の成果では黒犬が走り、人間の不安が心臓をドキドキさせる。大脳科学は黒犬の恐怖の神経伝達物質も、次の瞬間には異性に関しての神経伝達物質として使用される。記述できるわけではない。
今日は、物質の科学でもない、人間の心の心理学でもない、物質と人間が出会ったとき起こる現象についての現象学がある、という話でした。
フッサールやヘーゲル、ビンスワンガー、メルロ・ポンティなどについては自分で読んでください。結構無理言ってます。むしろ、文献学者のいい餌。
文献学者って、人生には文献学よりも大切なことがあると気づかないほどうっかりしているのだろうか。あれだけの人数がいて?