経済封鎖をせずに、新型コロナウイルスを食い止められるか

朝日デジタル
エルサレム=高野遼
2020年5月1日 12時00分
 新型コロナウイルスの影響で外出禁止や自粛が長引く中、いつどうやって「解除」を進めていくか――。各国に迫られる難しい判断に、イスラエルの著名なコンピューター科学者が一つのアイデアを提唱している。
 論文のタイトルは「経済封鎖をせずに、新型コロナウイルスを食い止められるか」。感染リスクの低い若者たちを先に解放し、高齢者はなるべく自宅隔離を続ける――。そんな戦略を実現するための独自の計算方法を編み出したのが、論文のミソだという。
 書いたのはヘブライ大のアムノン・シャシュア教授。車の自動運転技術で世界のトップを走る「モービルアイ」の創業者で、CEOでもある人物だ。同社は2017年、米インテルに153億ドル(1・7兆円)で買収されたことでも大きな話題となった。今回の提案の狙いについて、ビデオ電話で本人に取材した。
 ――コンピューター科学者なのに、なぜ感染症対策の論文を出すことにしたのですか。
 「感染症の専門家が取り組むべきテーマだと普通は思いますよね。ただ、今回のウイルスは『分からないこと』が多すぎる。疫学的な解析が難しいのです。感染のピークはいつで、本当の感染者数が何人なのかは、誰も知らない。もし外出禁止を解けば何が起きるかは、疫学的な計算ではなかなか分かりません」
 「そこでコンピューター科学の出番です。不確定な要素の中で、計算によって最悪のケースを避けるための条件を導き出すのは得意分野です」
 ――専門である自動運転技術の開発にも通じる考え方ですか。
 「その通りです。自動運転の場合、安全性と利便性のバランスが常に問われます。事故の可能性をゼロにしたいなら、車に乗らなければいい。でも人間は生活のために車に乗ります。事故の可能性を十分に減らしつつ、自動車をいかに走らせるか。今回、その発想を応用したわけです。感染を恐れて、ずっと家にこもっているわけにはいきませんから」
 ――具体的にどんな提案なのですか。
 「まず社会を二つのグループに分けます。『高リスク』は67歳以上や持病を持つ人たち。『低リスク』はそれ以外の人たちです。そして『低リスク』のグループだけ、外出禁止令を解除します」
ここから続き
 「普通の生活に戻った若者たちには徐々に感染は広まりますが、多くは重症には至りません。もし数週間から数カ月後、十分な人数がウイルスへの免疫を獲得し、感染が広がりにくい状況だと判断されれば、高齢者など『高リスク』の人たちが外出しても安全だと言えるでしょう。約1年半後のワクチン開発までの対応策としては有効な戦略だと考えています」
拡大する
シャシュア教授が提案する戦略。「高リスク人口」(赤)は自宅隔離により感染を抑える。「低リスク人口」(青)は社会復帰させるが、重症者数を医療体制の限界以下にとどめる(シャシュア教授の論文から)
 ――健康な若い人たちでも、感染すれば重症化する恐れがあるわけですよね。
 「その時、集中治療室(ICU)のベッド数がいくつあれば医療崩壊を防げるかを計算したのが、今回の論文の最も大事な部分です。イタリアやスペインでは、多くの死者が医療崩壊によって生まれています。感染者が出ても、十分なベッド数とそれに応じた人工呼吸器、医療スタッフがいれば命は救えるのです」
 「若い人たちの致死率は非常に低いことが分かっています。ただ、それでも感染が怖いという人に無理して外出は強制しません。あくまで、『低リスク』のグループに外出許可を出すという発想です」
 ――現実には、高齢者と若者が一緒に住んでいるケースもあります。
 「それも想定済みです。イスラエルの場合、同居中のケースのうち、半数は別居の選択が可能です。残りの半数は現実的に難しいので、その人たちは全員が外出禁止を続ける『高リスク』に分類しました」
 ――実際に計算をすると、どうなりましたか。
 「イスラエルの例で説明しましょう。150万人の『高リスク』の人たちは自宅隔離を続け、750万人の『低リスク』グループが社会に戻ります。現在のイスラエルでの感染状況を踏まえると、10万人あたり15床のICUベッドがあれば対応できる計算になります(後の論文では10万人あたり20床と算出)。現在は10万人あたり6床なので、政府の努力によって実現可能な数字です」
拡大する
何も対策をしない場合の重症者数。「高リスク人口」(赤)の重症者数が医療体制の限界(点線)を大きく超える(シャシュア教授の論文から)
 ――感染症の専門家からみても、説得力のあるアイデアなのでしょうか。
 「イスラエル首相府のもとに、外出制限からの出口戦略を練るために設置された委員会があり、私がトップを務めています。委員会から政府にこのアイデアを提案したところ、実現に向けて調査を進めることになった。専門家の意見も踏まえた判断だと思っています」
 ――この手法は他国にも適用できるのですか。
 「日本でも、たとえば東京でサンプリング調査を実施すれば、ICUベッドにあと何床の余裕があれば外出禁止を解除できるかが計算できます。5千人の無作為検査をすれば、十分に信頼できる数値が得られます」
 「現在は各国が国民全体に外出自粛を促し、感染のピークをなだらかにする戦略をとっています。しかし、これでは経済がやがて破綻(はたん)してしまう。高齢者はなるべく家にいてもらい、その他の人たちの感染リスクに耐えられるだけの医療態勢を整えた上で経済活動を再開させるのは、合理的な考え方です」
拡大する
外出禁止の場合の重症者数。全国民を対象に外出を制限することで、全体として重症者数を医療体制の限界以下に抑える戦略となる(シャシュア教授の論文から)
     ◇
 取材後、シャシュア教授は追加で二つの論文を発表した。高齢者ら「高リスク」の人の外出を制限してもなお、「低リスク」の人たちとの接触を避けきれずに感染する可能性なども考慮したモデルを構築。より現実に即した計算を進めている。
 イスラエル国内の感染データを元にすると、「低リスク」層の致死率0・01~0・02%に対し、「高リスク」層の致死率は2・2%と推定される。シャシュア教授は「まるで二つの別の病気に直面しているようだ。若者らが経済を回復させる一方、貴重な医療資源は『高リスク』の人たちに集中させる仕組みが必要だ」としている。