パチンコ屋さんは新型コロナの期間は営業は自粛してください、客としても自粛してくださいと伝えているのに、店は営業はするし、客は他府県から車で行って行列に並んでいるのだという。批判的な報道。 国民感情としては、そのような人が新型コロナで重症になって、病院で呼吸管理とか手厚く命を救ってください、健康保険や税金からたくさんお金を使ってください、その権利は、他の国民と同等ですと言われても、何か引っかかるだろう。 一方で、重症ベッドが足りなくなってきたら、年齢で区切り、ある程度の年齢まで生きたらもう十分ということ

パチンコ屋さんは新型コロナの期間は営業は自粛してください、客としても自粛してくださいと伝えているのに、店は営業はするし、客は他府県から車で行って行列に並んでいるのだという。批判的な報道。
国民感情としては、そのような人が新型コロナで重症になって、病院で呼吸管理とか手厚く命を救ってください、健康保険や税金からたくさんお金を使ってください、その権利は、他の国民と同等ですと言われても、何か引っかかるだろう。
一方で、重症ベッドが足りなくなってきたら、年齢で区切り、ある程度の年齢まで生きたらもう十分ということで納得していただくしかないとの議論も、仮定の議論としてではあるが出ている。もちろん、そうならないように、重症者ベッドを確保するのが政治担当者と医療担当者の使命ではある。
そこで仮定の話として、「自粛の説明も無視してパチンコ屋に行って過ごしていた人と、高齢者と、どちらを?」となったときにどうするか。
考え方としては、「これから10年、社会に善をもたらすのはどちらか」などがあるのだろうが、未来のことなど誰も分からない。結論としては、どちらとも決められない。だから、公平に扱うしかない。
(PCR検査についても、検査を受けるまでが大変と言われているが、西村大臣とか相撲関係者は重症度にかかわらずすぐに受けられているらしいが、どうなのかという批判も出ている。)
また別の考え方としては、これまで社会にどれだけの善をもたらしてきたか評価するというのもあるが、評価しようがない。
ボランティア活動の履歴を明確にして、健康保険証に情報として含めて、トリアージュの時に参考にするという考えもある。トリアージュについて、完全に整合的で全員が納得する方法などないのだから、分かりやすい便宜的方法として、ボランティア歴を点数化しておく方法である。
しかしたぶん、賛成は得られないだろう。
「すべて自粛のご時世で自分は暇でほかにすることもない、営業しているパチンコ屋がどこかをテレビで教えてもらったので来ただけだ、週に一回くらいにしているし、この程度の気晴らしはいいんじゃないの。そんなにだめなら法律で禁止にするでしょう。なってないんだからいいんですよ。」
と言っていた人が、一か月後に重症者ベッドで、「健康保険のお金はどれだけ使ってもいい、できるだけ手厚く治療してください。治療の順番も、できるだけ先にしてください。一般国民の権利として、お願いします。全員助かればいいけれども、そうでないなら、年齢の若い順に助けてください。」
となるわけだ。
命の価値に区別はないから、こうした人たち全員を救済できるように、制度や人を整えるのが社会の仕事である。
というわけで、たいていの国民の皆さんとしては、あーあ、と思いますよね。
むろん、医療の現場では、トリアージュの際にパチンコ歴をしつこく聞くなんてことはしないし、言わない限り、知りようがないことだから、問題にはならない。近所の人たちは、普段のその人の行動を知っているから、何かの感想は持つだろうけれども、その人たちはまたトリアージュにかかわるわけではないので関係ない。
あれこれ考えると、自粛要請を無視して、自分の楽しみだけを享受する、一方で、いざというときには、国民に等しく与えられた生存権を享受する。個人だけの利害損得で言えば、楽しみは最大化、福祉サービスも最大化で、得な行動様式なのかもしれない。
警告があるのにやめないで、国民医療費などを使ってしまうのは、たばこもそうだし、冬山登山の遭難などもそうなんだろう(捜索隊につしては経費を請求するのだろう)。
喫煙行動もギャンブルも、嗜癖という一種の病気と考えているわけである。夜のお店で濃厚接触をして、その結果、若い女性と若くない男性が病気をうつしあって拡大するというのも、行動が病気といえば病気ともいえるのだろうが、現在は病気に含めてはいない。
様々な制度を利用して自分は利益を享受し他人には我慢させ、しかしまた別の場面では国民全員に等しく与えられた権利を行使するタイプの人は、制度上の歯止めはなくて、ただ多数派の「自分としてはそんなことはしたくない」という感情だけが歯止めである。
また、そのような人々が現実にそんなに幸せでもないと感じるし、そのようになりたいとも思わないというのが一般感情であろうが、こうしたことをする一部の人たちは、実際に自分たちは度胸があるから特別にいい思いをしているのだと感じるような、特殊な感情を持つ人たちなのだろう。ということは、その人たちは主観的には幸せであるし、その人たち以外は、そうでないほうを幸せと思うので、特に問題はないのかもしれないとも思われてくる。
その人たちを処罰しようとか、現実の不利益を与えようとか思うのは、とても微妙なところであろう。
一般化しないで、現実のパチンコの制度だけについていえば、戦後の利権とか警察の天下りとか、いろいろな側面があるのだろう。
パチンコをやっている人をうらやましくとも思わない。パチンコ屋を経営して儲けている人をうらやましいとも思わない。駅前の景色として他国の人に誇れるものではないが、特に目くじらを立てるようなものでもない。
しかしなにか素朴な感情を逆なでするニュースなのである。