精神療法とアートと科学

精神療法のことなど書いたり読んだりしていて
ある本には最近の精神療法の「school」の変化と表現している
各流派の衰勢は激しく、ある流派はより素早く変化している
たとえば認知行動療法は激しく膨張し
森田療法は時代に合わせてのアップデートを拒み、MS-DOSの時代のままで停止している
交流分析は事実上消滅している(とアメリカの教科書に書いてある)
各流派で比較すると全く効果がないということはありえないし
自分たちでこのままではまずいと思ったら
自然に他の流派の良いところを取り込むので
どの流派でもそれなりに存在意義はあると思う
各デパートで、売っている商品の実質はあまり変わらないとしても
その並べ方とかおすすめの仕方は随分違うということかもしれない
これを精神療法の非特異的因子と呼んだりする
非特異的因子の実質としては共感的態度や傾聴があげられる
特異的因子としてはおおむね教育とか導きの因子が強くなる
さまざまな固有名詞や歴史や教義がこれに属する
治療者の人間的資質なども、非特異的因子に属する部分もあるのだが
特異的因子としてカウントしたほうがいいような場合もあるようだ
誠実に複雑に言うよりも
簡単に言って安心させて欲しい人がいたら
戦略としてか、根っから単純なのかしらないが、単純な物の言い方をする人はぴったり合っているということになるのだろう
 
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とまあここまでは問題も何もないのだが
世の中にはいろいろな人がいるもので
たとえば困っている人に対して
根拠はないが非常に断定的なものの言い方をして
好評を博する場合がある
特異的因子というものは
それぞれの人が必要としているから存在するのだろう
需要に応じる形で供給があるのだろうと思う
ということは、あくまでその治療法を選択するのは本人だろうから、
その人はその本人の資質以上の特異的因子の恩恵に浴することができないのではないか
その人がいいと思って話を聞くということは
その人の心に応じてのものなのだろうから
教育的とか導きとか気づきと言っても限界があるだろう
残念ながら壁の内側でグルグル回っているだけの場合もある
治療でかえって傷つくというのもこういう場合も多いだろうと思う
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治癒のメカニズムについては怪しげな場合も多い
実際こうやったら治ります、という手順を示されて、
それを追試できる、そしてそれをまたみんなで検討する
というのが科学の一般的な手順である
誰でも、どこでも、いつでも、同じ条件を整えれば、同じ結果が出る
だから科学である
たとえば宗教でも何かのおまじないをすれば誰でも結果が出ると教えられる
(たいていはいい結果は出ないので、私ならいい結果が出ると
誇大宣伝するグルが出現する。同時に、いい結果が出ないのは
心が淀んでいるからだとか、前世のたたりだとか、水子の呪いだとか、
話がどんどん良くない方に進む。衰弱している人にどんどんつけこむ)
条件が複雑すぎて『同じ条件』が何であるかを把握できない場合は
アートと呼んでいる
他人が真似してもできない
たとえば工芸作家の精密作品などはアートである
複雑で他人には真似ができないけれども、
本人の内部では再現性がある
本人にとっては秘密も不思議もない科学である 
私だって自転車はいつでも安定して乗れる
 
現代芸術は本人にも再現性がないような場合も多いと思う
それはアートというより偶然というべきだろう
生活維持の関係で心ならずもいろいろなことを言わなければならない立場の人がいるのだということもよくわかるが
そんな必要のない人も
やはり同じような根拠薄弱なことを言いもして行いもしているのは
実に不思議な現象だと思う
自分のやっていることがどうしてそのような効果を生じるのか
考えないのだろうか
メカニズムは不明、しかしアメリカで証明されているから大丈夫とか、そんなのはやめて欲しいと思う
自分のやっていることが不思議ではないのだろうか
不思議だと思うなら不思議を共有して科学の方向で解明すればいいのにと思う
というようなわけで
いまだに西洋中世の錬金術の時代が続いているような感じがする
無から金を生み出しているのだから
実に錬金術そのものではあるのだが