「週刊文春」一色武氏の衝撃告発第二弾 甘利事件

「週刊文春」2016年2月4日号甘利大臣事務所の嘘と「告発」の理由
安倍政権を直撃した甘利明TPP担当大臣事務所の収賄疑惑。甘利氏や事務所関係者、さらに自民党幹部は「嵌(は)められた」「罠」などと姑息な言い訳を繰り返すばかりで、確たる説明はいまだない。焦点の五十万円授受、告発の動機は……。一色武氏の衝撃告発第二弾。

「記憶があいまいなところもあります」

「いま事実関係、記憶を辿っているところであります」

 一月二十一日、参院決算委員会で答弁に立った甘利明TPP担当大臣(66)は、小誌が報じた『甘利明大臣事務所に賄賂1200万円を渡した』と題する記事に関する質問に、こう答えることしかできなかった。

 翌日の会見でも、大臣室や地元事務所で甘利氏本人が現金五十万円を受け取ったかとの問いに、「記憶と報道の違いを検証しているところなので、今まで以上のことは言うことはできない」と、授受を明確に否定しなかった。いや、否定できるはずがないのである。

始まった告発者への攻撃

「二〇一三年十一月十四日は大臣室で、一四年二月一日は甘利氏の地元である大和市の事務所で、大臣にそれぞれ五十万円をお渡ししています。大臣室では、うちの社長が、木の箱に入ったとらやの羊羹と一緒に紙袋の中に、封筒に入れた現金五十万円を添えて、『お礼です』と言って手渡しました。甘利氏は『あぁ』と言って五十万円の入った封筒を取り出し、スーツの内ポケットにしまったのです。

 大和事務所では、私が直接、大臣にやはり五十万円を封筒に入れてお渡ししています」

 こう語るのは一色武氏(62)。小誌先週号で、甘利氏と秘書たちへの千二百万円にのぼる金銭提供を実名告発した人物である。一色氏は千葉県白井市にある建設会社『S社』の総務担当者として、独立行政法人都市再生機構(UR)との道路建設を巡る補償交渉にあたってきた。一色氏は交渉を有利に進めるべく、甘利氏の公設第一秘書で、大和事務所所長でもある清島健一氏(39)に口利きを依頼。その過程で、多額の現金を甘利氏や清島氏、現・政策秘書の鈴木陵允(りょうすけ)氏らに手渡してきたのだ。

 記憶が「あいまい」という甘利氏本人の金銭授受について一色氏はこう語る。

「大臣は二十八日までに調査結果を公表されるとのことですので、それを待ちたいと思いますが、記憶を呼び起こしていただくためにも、一四年二月の大和事務所での金銭授受について、若干補足したいと思います。

 この日、私は大和事務所で甘利大臣に、URとのトラブルについて、資料を基にご説明しました。ここで大臣が、資料の中身について、私にいくつか質問をされました。そして、甘利氏は、封筒に入った現金五十万円を受け取った後、『パーティー券にして』とおっしゃいました。しかし、私が『いや、個人的なお金ですから(受け取ってください)』と言うと、大臣室の時と同様に、甘利氏は内ポケットに封筒をしまわれたのです。

 ちなみに、私との写真は清島所長が記念写真として撮って、その後、会食した時に渡してくれたものです。

 この年の十一月、横浜のホテルで、『甘利明君を囲む会』がありました。その会場で甘利大臣は、私に『その後、うまくいってますか?』と声をかけてくれたのです」

 先週号の一色氏による詳細な告発に、首相官邸は衝撃を受けた。そして、甘利氏に“調査”と称して時間稼ぎをさせる一方で始めたのが、一色氏に対するネガティブキャンペーンだった。

 発売日の二十一日夜、議員宿舎でのオフレコ取材に菅義偉官房長官は、「(一色氏は)その筋の人らしいね」と発言。二十三日には、自民党の高村正彦副総裁が公然と「(一色氏に)罠を仕掛けられた感がある」などと“援護射撃”し、ついに甘利氏本人も「先方は最初から隠し録音をし、写真を撮ることを目的とした人たち」と追随した。

 右翼団体に所属していた当時の一色氏の名刺がバラまかれ、官邸のストーリーに乗って後追いするメディアまであるという。

 一色氏は淡々とこう語る。「実名で告発する以上、こうした攻撃を受けることは覚悟していました。その団体に所属し、三年ほど政治活動していた時期もありましたが、私は過去に逮捕されたこともありませんし、“その筋の人”でもありません。

 恐喝していたのではないかという人までいるようですが、逆に私が大臣や秘書に多額の金を渡しているのです。実名で告発することは不利益こそあれ、私にメリットなどありません。もちろん、URとの補償交渉を有利に進めるために口利きを依頼し金を渡しているのですから、ほめられたことをしているわけではないのは承知しています。

 ただ、甘利氏を『嵌(は)める』ために三年にわたる補償交渉や多額の金銭授受を行うなんて、とても金と労力に見合いません」

 実は、一色氏と甘利氏との関係は、金銭授受以前にさかのぼるという。

甘利氏の父親とも面識が

「私は二十代の頃から主に不動産関係の仕事をしており、甘利大臣のお父さんで衆議院議員だった甘利正さんとも面識がありました。明氏と初めて会ったのは、まだ大臣がソニーに勤めていらっしゃった頃かと思います。厚木の料亭『S』で、正さんらとの会食に参加させてもらったとき、そこに明氏も同席していたのを覚えています。

 当時、本厚木駅の近くに甘利氏の名前をとった通称“アキラビル”というのがあり、このワンフロアに、不動産関係の仕事をしていた正さんの弟や地元の建設関係の仲間たちが集まり、よく情報交換をしていました。

 正さんのご自宅には何度もお邪魔したことがあります。当時、厚木の依知(えち)という地区に大きな屋敷がありました。正さんは、親分気質の方で、その屋敷に不動産関係の仲間がたくさん来ていた。正さんの書生をやっておられたIさんとも親しくさせていただいていました。

 そのIさんに連れられて、一九九六年から一九九七年ごろ、既に議員だった明氏に相談を持ちかけたこともあります。ある漁業権の売買に関する相談事があり、Iさんが、『明君に相談へいこう』と言い、大和事務所を訪れ、本人に応接室で対応していただいたのです。

 甘利家とは、昔からそんなご縁があり、私は清島氏が大和事務所に来るかなり前から、甘利事務所の秘書さんたちとはお付き合いさせていただいていました。

 また、月一回行われている勉強会『甘利明アカデミー』や政治資金パーティの『甘利明君を囲む会』にも何度も参加しています。

 URの件で、清島所長に金を渡すようになった後、二〇一四年四月には安倍晋三総理主催の『桜を見る会』にもご招待いただきました。私が大和事務所で甘利大臣に五十万円を渡してから二カ月後のことです。清島所長からのお誘いでした。当時大人気だった芸人のスギちゃんもいて、大臣の親族の店に昔よく来ていた関係で招待されたそうです」

 一色氏が、録音や渡したピン札のコピーなど、多数の“物証”を残していることについて、いぶかしむ声もある。

「口利きを依頼し金を渡すことには、こちらにも大きなリスクがあるのです。依頼する相手は権力者ですから、いつ私のような者が、切り捨てられるかわからない。そうした警戒心から詳細なメモや記録を残してきたのです。そもそも、これだけの証拠がなければ、今回の私の告発を誰が信じてくれたでしょうか?

 万一、自分の身に何かが起きたり、相手が私だけに罪をかぶせてきても、証拠を残していれば自分の身を守ることができる。そして、その考えは間違っていませんでした」 先週号で小誌は、URから補償金約二億二千万円が出た見返りとして、二〇一三年八月二十日、一色氏が清島氏に五百万円を渡したとの証言を掲載した。小誌発売後、朝日新聞などの報道によれば、清島氏はこの五百万円のうち、三百万円を一色氏に返したと後援者に説明しているという。

「三百万円を私がネコババしたという噂も流されているようです。まさに私が危惧していた通りになりました。もちろん三百万円は、返してもらっていません。

 あの日のことを正確に説明しましょう。実は、私が大和事務所に持っていったのは現金一千万円でした。一千万円を清島氏に差し出したのですが、半分の五百万円は、『これは別の機会に』と清島所長から返されたのです。ですから、清島所長が実際に受け取ったのは、当初もらった領収書の通りの五百万円です。

 私は先週号で、約千二百万円を甘利大臣や秘書たちに渡したと証言しました。ただ、それは確実な証拠が残っている分だけで、私の記憶では、渡した金銭や接待の総額は数千万円にのぼるはずです。時の権力者を告発する以上は、正確にも正確を期して、裁判にも耐えうるよう、証拠の残っているものだけに限定してお話ししたのです。

 清島所長は、最初に五百万円を返し、また別の日に三百万円を返したと言うのでしょうか? 三百万円を返したと言うなら、いつ、どこで返したのか、私の証言と同様に詳細に説明すべきです。私は、こうした事態に備えて、詳細な行動記録をつけてきました。反論する準備はできています」

 さらに、小誌が清島氏の現金授受現場の写真や甘利事務所がURとの交渉に関与している場面の写真を掲載したことについても驚きと疑問の声があがった。あまりに決定的な瞬間だけに「罠に嵌めた」のではないかというのだ。そうした誤解をとくためにも、異例ではあるが、小誌の取材経緯を明らかにしておこう。

「私を銀座一のママにして」

 小誌が一色氏から、甘利事務所への口利きに関する具体的な話を聞いたのは、昨年八月二十七日のことだ。

 一色氏が甘利事務所の秘書たちと、毎週のように昼食を共にし、夜の接待を繰り返して、URや国交省への口利きを依頼し、さらに現金まで渡しているという話は、にわかに信じがたいものだった。

 小誌は長期にわたり裏付け取材を進めた。特に重視したのは、証言だけでなく、第三者にも分かる写真などの客観的な証拠をおさえることだった。

 まず、一色氏や甘利事務所の秘書たちの行動確認を始めた。彼らがほぼ毎週昼食をとるという店で張り込んでいると、九月七日、一色氏が清島氏や鈴木氏と連れ立って現れた。

 その後も、行動確認を続けると、ほぼ彼らの行動パターンがわかってきた。行きつけの居酒屋からフィリピンパブへと流れる彼らの姿も複数回確認できた。ある日、記者が店内に入ると、清島氏は満面の笑みを浮かべ、隣の女性と談笑していた。清島氏の席についていたホステスのY嬢を呼び、話を聞いてみると、「あの人? 清島さんね。よく来るよ」

 そして、十月十九日、一色氏と清島氏が毎週ほぼ同じ時間に現れる喫茶店『F』で張り込んでいたところ、ついに現金授受の瞬間をカメラでとらえることに成功したのである。

 一色氏が述懐する。「この頃から、私は甘利事務所に不信感を抱くようになっていました」

 二〇一三年に清島氏に相談したことがきっかけで進展したURとの交渉。この時、約二億二千万円の補償金を得たことで、一色氏は甘利事務所への信頼を深めた。しかし、この後の産廃撤去を巡る約三十億円規模の補償交渉は難航する。

「六十を過ぎた私が、年の離れた彼らに何度も何度も頭を下げてきましたが、情けないことに、結局騙されていたことにようやく気づき始めたのです。彼らにとって、私はキャッシュディスペンサーにすぎなかった。彼らはフィリピンパブやキャバクラ、銀座に行きたくなると、『URの件で打ち合わせしましょう』と私を呼び出し、金を払わせるのです。

 清島所長は、数百円のコーヒー代や、車のコインパーキング代すら自分で支払ったことはありません。鈴木さんも、事務所に持って帰るからと、メロンパンまで買わせる始末です。私は彼らにバカにされていると自覚しつつも、URとの交渉のためにじっと耐えてきました。

 しかし、いくら彼らを接待し、金を渡しても、URとの交渉はいつまでたっても前に進まない。私にも我慢の限界があります。もう甘利事務所とは決別することにしたのです」

 一色氏が、録音やメモなどの詳細な記録を小誌に提供したのは今年一月のことだった。

 記録には、一色氏に決別を決意させた清島氏らの“タカリ”の様子が克明に残っている。

 昨年九月十七日、清島氏は、居酒屋でウーロンハイを飲みながら、一通り料理を食べ尽くすと、おもむろにこう切り出した。

〈今日も一色さん行きそうなんで、『行くかも』ってメールを打ってるんで。(D店の)Aさんと、S(店)のYさんに。でも、行くかも、にしてるんで。一色さんが心変わりしてB(店)に行きたいとか始まったらハハハ。どこでどうなるかわからない。だって蛇口は一色さんが握ってるんですよ。この辺の蛇口は〉(アルファベットは仮名、以下同)

 金の“蛇口”である一色氏に、フィリピンパブ接待をおねだりする清島氏。この日、居酒屋も二次会の多国籍クラブ、三次会のフィリピンパブも、支払いは全て一色氏だった。

 清島氏は、フィリピンパブ好きが高じて、一色氏と店を共同経営する話に乗り気になっていた。店のママを誰にするかについて、清島氏はこう熱く語っている。

〈(候補は)いますよ。政治の関係で知り合ったんですけど、四十過ぎてますけど、経営的には、経営学がしっかりしています〉

 鈴木氏も負けていない。「鈴木さんとは、URの件が無事に決着したら、その見返りに銀座でクラブでも経営しようという話になっていました。彼は、入れあげていた高級クラブ『B』のホステスから、『私を銀座一のママにして』と言われたそうなのです。鈴木さんは、甘利氏の後援会の人脈で大手ゼネコンの顧問や大手飲料メーカーの幹部と昵懇だといい、そうしたVIPを店に連れてくれば、売り上げも見込めるし、ホステスを銀座で一番にできるねとも話していました」(一色氏)

「顔立てるっつったよな」

「銀座ホステス」の件は、鈴木氏にとって、口利きの大きな“モチベーション”になっていたようだ。清島氏は昨年十一月十三日、鈴木氏をこう鼓舞したと一色氏に説明している。

〈URの件、(鈴木に)がんばれがんばれっていう会話をしてたわけ。してたの。鈴木君が握ってるんだよ。いま仕事で大きな案件があってね、それによってママの夢を叶えられるかが決まってるんだよ、みたいな話をしたんです〉

 もちろん、タカリだけでなく、あっせん利得処罰法に触れかねないURへの口利き、謝礼の授受現場の発言も多数録音が残っている。

 前出の昨年九月十七日には、いつものように清島氏は“経費”十五万円を受け取った後、こんな会話を交わしている。

一色氏〈いろいろ経費かかると思いますがURの件で何卒よろしくお願いします〉清島氏〈がんばります〉

 清島氏と鈴木氏から、口利きのために、金銭提供を要求することもあった。

「昨年三月頃、鈴木さんが国交省の局長に口利きを依頼し、商品券五万円を渡したと言うので接待費とあわせて計十万円を渡しました。翌月には、さらに『三十万円くらい経費が必要だ』と言われ、清島所長に渡しました。昨年七月にも同じ局長に口利きをお願いしたようですが、この時は『何か逃げた雰囲気があって、今回は渡さなくて良かった』と言っていました」(一色氏)

 この局長は小誌の取材に、「(昨年三月と七月に甘利氏側から)問い合わせがあった。商品券は受け取っていない」と回答した。

 ただ、この“国交省ルート”によるURとの交渉はうまく進まなかった。

「そこで昨年九月十七日、清島所長に改めて相談したのです。そうすると『もう一回仕切り直しましょう。甘利事務所で根回しして、決裁権のある人を出してもらいましょうかね』と言われました」

 この日、清島氏は二通りの方法を提案した。

〈正規ルートでは、鈴木の方から現場の担当に上の人間を紹介しろと。で、S(社)さんが直接話をするからと。それが一つ。で、もう一つは、こちらから、どうなりました? っていう確認を入れると。本社に〉

 甘利事務所が関与して、“正規ルート”と“本社ルート”の二方向でURへ話を通すというのだ。ここから、甘利事務所の口利きは一層露骨になっていく。

 昨年十月五日、“正規ルート”によって、UR総務部の国会担当職員が大和事務所に呼び出された。

 交渉直前、清島氏は一色氏に〈こっちも(URを)追い詰めていかないと〉と意気込みを語っている。

 国会担当職員が大和事務所に姿を見せると、まず鈴木氏がこうまくし立てた。

〈ご相談事というのは、用地買収の部分で御社役員の方とお話をしたいっていうのが主なんですけど〉

 一色氏がこれまでの事情を説明すると、鈴木氏がURに圧力をかける。

〈千葉のURの理事か何かいるよね。あのへん出してもらって、会社としてどのように現状を把握しているのか、というのを聞いていただいて。そういうのは可能ですかね〉

 先週号でも紹介したように、補償交渉の資料に目を通した鈴木氏が、〈私、前向きだと思ったんだけど〉と尋ね、国会担当職員が〈後ろか前かで言ったら、前かと〉と応じる一幕もあった。

 十月二十七日、一色氏はUR側から連絡を受け、UR千葉ニュータウン事業本部を訪れた。この時、一色氏が、今回の交渉がセッティングされた経緯を尋ねると、URは次のように答えている。

〈(一色氏が)甘利事務所の鈴木秘書に会われて、今回の補償の案件について、ちょっと要望されたというふうに伺っておりまして。それは鈴木秘書が仲立ちしていただきまして、ちょっと業者の人に会っていただけないかということで〉

 同じ日、議員会館の甘利事務所にURの総務部長と前出の国会担当職員が姿を見せたと、清島氏は一色氏に説明したという。

 清島氏は、この日の鈴木氏のURへの“威圧”ぶりを自慢気に語っている。

〈開口一番威圧したんですよ。私たちは、今までこれほどこじれた話なんだから、現場ではなく、ちゃんと本社に持って帰る話だろうという話をしてたんです〉

〈最初にガツンと会った瞬間に「あんたたち、俺たちの顔立てるっつったよな、わかんなかったの?」って言ったから。たぶん(UR側は)「いや、違います」と言い訳(をしていた)〉

〈こっちが威圧したから取り繕うような話になったんですけどね〉

大臣の名前をチラつかせて

 さらに、清島氏は一色氏に対し、補償金額を具体的に要求するようアドバイスしている。甘利事務所が補償交渉により介入しやすくするためにも、大まかな数字を出すべきだと言うのだ。

〈一応推定二十億かかりますとか、そういうなんか言葉にして欲しいんですよね。実際の金額について細かいとこまで絡めないんですよ。こういうところは今だったらギリギリ絡めるんで〉

〈今回(甘利事務所が)出ることによって、少しでも話がつきやすくなるのであればと思って、ギリギリの線出たんで〉

 十一月十二日には、鈴木氏が、千葉で行われた一色氏とURとの交渉にも同席した。「この日、鈴木さんに結婚祝い五万円、車代三万円を手渡しました」(一色氏)

 交渉を終え、鈴木氏は一色氏にこう感想を漏らした。

〈こういうのなんだなってのが分かったし、次、打開策じゃないですけど、やり方も出てくると思います〉

 一色氏が〈今日夜(URから)また電話来ますよ〉と言うと、鈴木氏は〈そしたらまた教えて下さいよ。これこれこうで、と進め方も考えられるんじゃないですかね〉と応じた。

 そして十二月一日、清島氏は再びURの総務部長を大和事務所に呼び出した。清島氏は交渉の様子を一色氏に後にこう報告した。

〈「駄目なら駄目なりにね、なんで値段上げられないのかね」って言ったら、「そうですよね」と〉

 金の話をした上で、大臣の名前をチラつかせて、圧力をかけたと言うのだ。

〈「大臣もこの案件については知っているんで、こっちもちゃんと返事を返さなくちゃいけないんですよ」と言ったら、(UR側は)大臣のポスター見て「そりゃすぐやんないと駄目ですね」とか言って〉

 この頃になると、清島氏は「甘利事務所」の名前を公然と出すことをためらわなくなっていた。

〈あんだけ(自分が)「甘利事務所の名が出るのが嫌だ」って言いながら、もうここまで出たからいいやって、開き直ったんですけど、ハハハ。まだどう転ぶか、向こうから返事ないんで。でも、もうかなりこれは向こうを追い詰めたというか〉

 十二月十六日、清島氏はまたもURの総務部長を大和事務所に呼び出した。

〈雑談をした時、(UR側は)「これ以上、甘利先生のところが深入りするのは、自分としても良くないと思います」と、そこから始まりました。そうはいっても、(私は)「うちは(一色氏とは)縁は切れませんよ」と。「だから、ちゃんと結論としては何かを出していただくしかないですよ」と言ったんです〉

 清島氏は、先週号で、URへの口利きについて質した小誌にこう答えた。

「うちとしては頼まれればどういう経緯なのか、問い合わせをするのは確かなんですよ」

 しかし、録音記録は、甘利事務所の行為が単なる「問い合わせ」ではなく、「口利き」であることを物語っている。

 一連の交渉について、URに確認を求めたが、「調査中」との回答だった。甘利事務所にも、質問状を送ったが、先週同様、回答はなかった。

 国民の血税から多額の給与を受ける国会議員とその公設秘書が、権力を金に換えていたとすれば、これまさしくゲスの極みというほかあるまい。

2016-01-31 02:28