バイリンガルどころか「ハーフリンガル」に…「子どもをバイリンガルに育てるのは意外に困難で、下手をするとどちらの言語も不完全な『ハーフリンガル』になってしまう危険性さえある」と耳にしたのです。

引用したあとでコメントしたい
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 そもそも私がアメリカに住んでみたいと思った理由の一つは、子どもの学校教育システムにありました。アメリカの学校教育に対して、「詰め込み教育ではなく、独創性が重視され、日本のような受験競争からは無縁のゆったりとした教育が受けられる」という漠然としたプラスのイメージを持っていたのです。
 中学・高校と日本の受験戦争の中をひたすらかいくぐってきた私としては、「自分の子どもたちにはもっと余裕のある教育を受け、有意義な子ども時代を過ごしてほしい」という思いがありました。それに、世界の標準語である英語を自在に操れるようになれば、子どもの将来の可能性もずいぶん広がるだろうと考えたのです。
バイリンガルどころか「ハーフリンガル」に…
 ご存知のように、アメリカで主に使われるのは英語です。わが家には現在4人の男の子がいますが、渡米時に下の2人はまだ生まれておらず、長男は4歳、次男は1歳半で、これからいくらでも言語を習得できるという年齢でした。「英語は保育園や幼稚園、学校で勝手に覚えてくるだろう」という予測の下に、家庭では日本語のみで会話するという方針で子どもを育てました。日本語を学ばせるという目的もありましたが、一日中仕事で英語を使って疲れて帰宅した後に、自分の子どもとまで英語で会話などしたくないという親側の事情もありました。
 それまで私は、日本語を母国語とする日本人の両親に育てられている子どもが英語の国アメリカで育てば、当然のごとく日本語と英語のバイリンガルに育つと思っていました。ところが、渡米前にテレビの番組で、「子どもをバイリンガルに育てるのは意外に困難で、下手をするとどちらの言語も不完全な『ハーフリンガル』になってしまう危険性さえある」と耳にしたのです。それでも「そんなこともあるのか。まあ、うちは大丈夫だろう」と、当時は高をくくっていました。
 さて、アメリカ生活も5年目に入った2008年頃、ついに大変なことに気づきました。以前から薄々感じてはいたのですが、子どもたちの日本語がおかしいのです。長男は小学校3年生、次男は小学校1年生だというのに、どちらの話す日本語も日本の幼稚園児レベルに思われます。正確に測定したわけではありませんが、語彙は著しく不足し、「てにをは」の使い方も不正確。少しでも複雑なことを伝えようとすると、言いよどんで口ごもる。その上、知らない日本語の単語は英単語に置き換えて話すので、こんな具合になっていました。
 「パパ、outsideでbasket ball遊んでいい?」
 「道に歩いてたら、転んで、頭にたんこぶがついて、足に血が出た!」
 毎週土曜日に欠かさず通わせていたインディアナ日本語補習校(※1)の宿題は、問題文の意味が分からなくて解けないことがよくあり、漢字の読み書きを一生懸命やらせても、使う機会がないので片っ端から忘れていってしまいます。漢字があまり得意ではないと、日本語の本を読むのが苦痛になり、読書から遠ざかってますます日本語の発達が遅れるという悪循環です。息子たちの拙い日本語を聞き慣れてしまった頃、赴任したばかりの日本人家族の小学生が話すやけに流暢な日本語に驚いてしまったこともありました。
 では、英語の方はペラペラになったのかというと、現地校(※2)の行事などでは、小鳥の群れのようにぺちゃくちゃとおしゃべりする同級生の中で、わが子はどちらかというと物静かに見えました。そこで、授業や同級生の英語がちゃんと分っているのかと尋ねると、「ほとんど分かっているけれど、時々分からないこともある。同級生のように上手には英語を話せない」という返事。そういえば現地校の宿題をする際、よく「問題文の意味が分からない」と言って私に質問に来ます。英語の成績も何だか平均以下。学校でのテストも問題の意味が分からなくて時間切れになったことがあると言います。
 最近引っ越してきたわけでもなく、就学前からアメリカに住み、幼稚園から現地校に通っていたにもかかわらず、このような事態になってしまったことに、私たちは親として大変ショックを受けました。まさにうわさに聞いていた「ハーフリンガル」状態に自分たちの子どもが陥ってしまったのです。
言語の発達には様々な環境が必要
 いくら私たち日本語ネイティブの両親に育てられても、子どもが小さいうちの会話は、「起きなさい」「ご飯食べて」「あれはダメ」「早く宿題しなさい」といった程度。家庭で使われる日本語のレベルは高が知れています。より抽象的・社会的な表現を含む高度な日本語は、学校や友達との会話、そして読書や作文で培われます。家庭の外で日本語に接する機会が日本語補習校で週に一度5時間だけに限られるという環境では、書き言葉はもちろん、話し言葉まで発達が遅れるのです。
 逆に、学校や友達との会話で英語を日常的に使用していても、家庭でほとんど英語を使わなければ、英語表現の微妙なニュアンスを両親から学ぶ機会がなく、同じく発達が遅れるようです。日本人にせよアメリカ人にせよ、子どもが言語を習得していく過程は、私たちが意識している以上に周囲の言語的・社会的環境に大きな影響を受けていることが分かります。
 インディアナ日本語補習校の校長先生がおっしゃるには、言語の発達には「主となる言語」をまず子どもの中に確立させ、「従となる言語」をそれに沿わせて発達させるのが理想的とのこと。主たる言語の確立がうまくできないと、どちらの言語の発達も遅れてしまうのだそうです。
日本語ネイティブには分からない地理、歴史、古文の大変さ
 あれから5年経って2013年の現在、長男と次男は現在14歳と12歳になりました。英語に関しては、話し言葉も書き言葉も日常生活ではアメリカ人の子どもとほとんど遜色ないまでにギャップが埋まってきましたが、現地校での語学の成績は平均レベルです。日本語も発達は続けていますが、書き言葉も話し言葉も明らかに年齢相応の基準から何年も遅れています。これは、程度の差こそあれ、アメリカ在住のどの日本人家族に尋ねても、よく見られる傾向のようです。
 インディアナ大学病院には、両親が日本語を母国語とする日本人で、子どもの頃からアメリカで育ち、アメリカの医学部を卒業した外科や麻酔科のレジデントが何人かいます。高等教育を全うして医師となり、一見アメリカ人と全く同じように訛りのない達者な英語を操り、英文でカルテを軽やかにタイプしている。そんな彼らも話を聞いてみると、「実は現地校での英語の成績は最後まで平均レベルを抜け出せず、日本語もあまり得意ではない」と打ち明けてくれました。
 興味深いことに、7歳と5歳になる三男と四男は、言語の発達の様子が上の兄弟2人とは少し異なっています。彼らの言語は圧倒的に英語優位です。英語は既にアメリカ人の子どもにほとんど劣りませんが、日本語は上の2人よりさらに語彙の発達が遅れています。個人差もあるのでしょうが、おそらく年上の兄弟のおかげで家庭にいても英語のテレビや本に接する機会が多くなって英語の語彙や表現力が豊かになった一方、日本語で不足している語彙は英単語に置き換えてしまえば家族の中でのコミュニケーションは事足りるため、日本語の発達がさらに遅れているのだと推測しています。
 インディアナ日本語補習校で教える科目は、小学校の間は国語と算数のみですが、中学・高校では地理や歴史、古文も加わってきます。自分自身が日本で中学生だったときには全く気づかなかったことですが、地理や歴史を学ぶにはかなりの日本語の語彙が必要で、平易な現代文の教科書を読むことすら苦労していた長男には大変な負担になっていました。日本語補習校生の多くが中学・高校でドロップアウトして現地校一本になってしまうのも理解できます。それでも四苦八苦しながら地理・歴史・古文の勉強をし続けていると、意外にも長男の日本語の語彙が増え、日本語の表現力にも幅が出てきているのは面白い事実です。
母国語を学ぶ意義をなかなか分かってはくれないが…
 小学校低学年の間は言われるがままに日本語補習校に通っていた子どもたちも、学年が上がるにつれて「なんでなけなしの土曜日をつぶして日本語の勉強をしなければならないの?」という疑問がわいてくるようになります。そんなとき、私は次のように答えるようにしています。
 「英語しか話せないアメリカの普通の家庭の子は、大人になってもアメリカ以外の世界は知らないだろう。一生アメリカ以外の国で働くことも住むこともない人が大多数だ。君は日本語が話せる。少しは日本の文化も知っている。大人になったら日本で働くこともできる。普通のアメリカ人よりも世界が2倍広くなるんだ」
 事ほど左様に、外国に住みながら母国語の能力を獲得し、維持することは大変です。そんな大変な努力を続けたにもかかわらず、海外に移民した人々は3世代目で祖国の言語を失ってしまうと言われています。それでも私がこれほどの手間と時間を自分の子どもの日本語教育に費やすのは、「日本の言語や文化を次の世代に伝えたい」という強い願いがあるからなのです。
 しかし、日本語を学んだとはいえ、英語が優位言語となってしまった私の子どもたちに、世代を超えてこの情熱を維持しろというのは無理な話かもしれません。もし、私の孫たちが全く日本語を理解できないとしても、“日系人としての誇り”だけは少しでも伝えたいと思っています。
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バイリンガルに育てたいという話は少なくない。
でもたいていは、どちらの能力も不足で終わる。
翻訳して置き換えればいいと思っているレベルでは
グーグル翻訳と似たような話で
その人達の望む本当の高レベルのバイリンガルではないのだろう
何か物や事を表現するとして英語ならこう、日本語ならこう、中国語ならこう、などと併記されるのだけれども、飛行機乗り口の表示ならばそれでいいとして、細かい描写やモノの感じ方や論理の組立てになると、それぞれの言語の特性が出て、微細な違いは最後まで残り、その違いに敏感な人は、英語を使っていると日本語が壊れると思い、日本語を使っていると英語が壊れると感じるらしい。入れ替え可能でもないし、むしろ害を及ぼすとの感覚があるらしい。
それは表現者としてのレベルであって、商売の道具として使うレベルならば、バイリンガルで便利なのだろう。
しかし言葉はただの道具ではなくて、人間の脳にとってOSそのものではないかと思う部分がある。それを並列的に使ってうまくいくようにするには、OSを使い分ける上位のOSが必要になるのだが、そんな風には出来ていないらしい。